神戸の平清盛ゆかりの地をめぐる 明泉寺と孝子 平知章の墓 |
墓が神戸市長田区の禅寺明泉寺(みょうせんじ)に眠っています。
本日は2011-5-3に訪問した時に撮った明泉寺境内の平知章の墓を中心として写真を
紹介します。
明泉寺の基本情報
住所:神戸市長田区明泉寺町2丁目4−3 TEL:078-691-8338
山号:天照山 宗派:臨済宗 通称:大日寺
公式HP
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上の写真は明泉寺の本堂。
天平年間(729~766)、行基菩薩(668~749)が西代の蓮池を拓かれた際に、
長田村から白川村を経て太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地に
創建されたと伝えられている。
寿永3年(1184)2月の一の谷・生田口の戦い(明泉寺合戦)に平盛俊が陣を張って
源氏の義経、多田軍の来襲に備えていたが戦災で焼かれてしまった。
観応2年(1351)赤松判官光範公により現在地に再建された。
上の写真は平知章のお墓(五輪塔)である。
昭和8年(1933)神戸史談会会長木村昇三氏等の尽力で明泉寺の北の谷、モンナ池
の辺りで薮の中にひっそりとあった塚を境内に移したものである。
海軍中将子爵の小笠原長生の書で孝子 武蔵野守 朝臣知章墓と
書かれた石碑が左手にあった。
上の写真は同じく小笠原長生中将の書による平知章の顕彰碑である。
上の写真は源平盛衰記で描かれた16歳の平知章と従者の監物太郎頼方が
父及び主君の新中納言知盛を海に逃がす場面を描いたものである。
平家物語の第9巻平知章最期の記載(口語訳)には次のように書かれています。
「 新中納言知盛は生田の森で、範頼軍との戦線を捨てて脱出しその軍兵は皆逃げて
いなくなり、今は御子の武蔵守知章、侍の監物太郎頼方という主従三騎になって
助け舟に乗ろうと波打ち際の方へ逃げてきました。
その時に、源氏方の児玉の一党と思しき軍配団扇を紋章にした旗を掲げた
十騎ほどが大声をあげて追いかけてきました。
監物太郎は弓の上手であり、真っ先駆けてきた旗差しの首をひょうふっと射て
馬からさかさまに射落としました。その中で相手の大将と思われる侍が知盛と
組もうと馬を走らせて押し並べてきて組み合ってきたときに、父の急を知った
知章はその中に割って入り、組み打ちを挑んで見事相手の首を斬り立ち上がろうと
したところに、敵の童が加勢にやってきて、武蔵守の首を討ってしまいました。」
上の写真は牛の像である。明泉寺通称大日寺は江戸時代「牛の寺」と呼ばれ
農家が牛の健康を祈るために連れてくる風習があったそうである。
上の写真は仏足石です。
仏足石は 今から2500年前にお釈迦様が亡くなり(涅槃)
インドでは仏像はおそれおおいのでこのように石に足跡を刻み礼拝しました。
足の真ん中の車輪(千輻輪相(せんぷくりんそう))はいわば仏のシンボルです。
この車輪のタイプは足下二輪相(そくげにりんそう)で三十二相八十種好の説にもとづいて
造られています。
上の写真は思い出の松の石碑です。
神戸新聞ミントクラブの中の記事
によれば昭和初期に平知章の墓を明泉寺に移設したときの前後に植えられた
松があったようです。
上の写真は寺崎方堂先生の句碑です。
昭和8年5月12,13,14日の明泉寺入仏落慶の日に詠まれたものです。
「青嵐 ちぎれ雲さえ なかりけり」と詠まれています。
寺崎方堂先生は明治23年(1890)神戸市に生まれました。
浜崎通で家業を営みながら俳句を学び大津市の義仲寺の第18世無名庵主となり、
芭蕉以来の蕉風俳諧の伝統を伝えるべく、昭和22年俳諧詩「正風」を創刊し、
これを主宰しました。昭和38年(1963)12月24日没。
須磨浦公園にある松尾芭蕉の句碑の字は寺崎方堂先生によるものである。
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どうかが重要。明治四年頃に身分開放令がでるまでは、
社会に厳格な区別があった。
差別されている人と一般人が同じ寺で供養されないように、
人間と畜生を共に供養することは無かった。
寺院にも区別があり、各本山、各宗派には末寺帳と呼ばれる名簿があり、
職業、身分により、人民は宗派を定められていた。
明治四年以前には畜生を供養する寺は特定の宗派に入れなかった事は事実である。
明治四年以前には暗い現実が存在した。
社会には差別無く、動物も愛護しなくてはいけないと思います。
示唆に富んだコメントをありがとうございました。
このようなコメントをいただくと、もっと、もっと
勉強して記事を書かないいけないなあと思います。
今後とも、ご指導をよろしくお願い致します