2011年 05月 20日
兵庫津の西の玄関口柳原惣門跡と東の玄関口湊口惣門跡 |
1180年の平清盛による福原遷都から兵庫津の大輪田の泊の修復が
行われ兵庫津の発展のきっかけになったことは周知のとおりである。
兵庫津は江戸時代にはすでに人口2万人を超える港町に発展していました。
本日は柳原蛭子(正式にはひること読む)神社にあった柳原惣門跡の石碑を
写真紹介します。
柳原蛭子神社については小生のBlogを参照ください。

上の写真の撮影日は2011-5-15
石碑の横に神戸市と岡方協議会が平成15年(2003)に作成した説明板
があり、下記のように記載されています。
「西国街道は、近世になってからは、西から来れば、須磨・長田方面から現在の
JR兵庫駅の北を通り、西柳原町の柳原蛭子神社と福海寺にはさまれる位置
あたりで兵庫の町にはいる。
西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と
東の湊口には惣門が設けられていた。
柳原惣門が最初に設置された時期は、兵庫城の築城に伴う外郭の
土塁(外輪堤・都賀堤)の構築時である天正八年(一五八〇)頃に、
その関門の一つとして設置された可能性が高い。
城は、現在の中ノ島あたりに主郭を置き、周囲にこの外郭の土塁と堀を設け、
内側は郭内として兵庫津のまち全体を城下町とする縄張りとなっていた。
即ち、兵庫津の外郭は総曲線(総構)と考えられ、その曲輪の門として
惣門と称されたのではないかと推測される。
この門は、明治八年外輪堤(都賀堤)とあわせて撤去された可能性が高い。
なお、平成十三年度に実施した柳原惣門調査会による調査と、
平成十四年度に実施した埋蔵文化財調査(兵庫津遺跡 第二十九次調査)の
発掘結果を参考として推定復元図を作成した。」
平成十五年十二月吉日
神戸市
岡方協議会
発掘調査について柳原蛭子神社のHPに平成14年10月6日の発掘現場説明会
の写真と解説がありましたのでリンクさせていただきます。
上記の西の玄関口であった柳原惣門跡に対する兵庫津の東の玄関口は湊口の惣門で
現在の湊八幡神社に石碑と説明板があります。
石碑の写真を撮っていなかったので説明板の写真と現在の湊八幡神社の拝殿の写真
を紹介します。 下の2枚の写真 撮影日:2011-2-21


昭和4年12月 岡久穀三郎氏と福原潜三郎氏による説明板には下記のように
書かれています。
「西国往還に設けた兵庫の出入口の惣門である。
東より来る西国往還は相生橋より相生町を経て、市電気局前に来り、
進んで此の惣門を入り、兵庫津の湊・江川・木戸・木場・小物屋・北仲の諸町、
今の所謂兵庫本町を進み、南仲町今の神戸商業銀行の前を右折し、
小廣・神明・逆瀬川・東柳原・西柳原の町々を過ぎ、
柳原口にあった柳原惣門を出て、斜めに今の長田交又点に出て、
西代を経て須磨に向かった。
兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命にによって、
花熊城を攻略し、その功によりて兵庫を治し、城を築く。
其時、湊口・江川口・永澤口・三川口・問屋口・皆関門番所を設け、
市中にも宮内・匠・松屋・魚棚・島上の諸町に、中濱門として番所を設けたが、
徳川時代に入り、青山氏が此の地を領した時、悉く之を破却し、
湊口・柳原口の西門を残した。
古図によれば、惣門内には何れも番所があった。
更に北番所の傍に高札があったが、幕末の地図によれば門外左側に
高札所が移転している。これは門の修築び当たり番所を廃し、
高札所を門外に移したものと思料する。」
行われ兵庫津の発展のきっかけになったことは周知のとおりである。
兵庫津は江戸時代にはすでに人口2万人を超える港町に発展していました。
本日は柳原蛭子(正式にはひること読む)神社にあった柳原惣門跡の石碑を
写真紹介します。
柳原蛭子神社については小生のBlogを参照ください。

上の写真の撮影日は2011-5-15
石碑の横に神戸市と岡方協議会が平成15年(2003)に作成した説明板
があり、下記のように記載されています。
「西国街道は、近世になってからは、西から来れば、須磨・長田方面から現在の
JR兵庫駅の北を通り、西柳原町の柳原蛭子神社と福海寺にはさまれる位置
あたりで兵庫の町にはいる。
西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と
東の湊口には惣門が設けられていた。
柳原惣門が最初に設置された時期は、兵庫城の築城に伴う外郭の
土塁(外輪堤・都賀堤)の構築時である天正八年(一五八〇)頃に、
その関門の一つとして設置された可能性が高い。
城は、現在の中ノ島あたりに主郭を置き、周囲にこの外郭の土塁と堀を設け、
内側は郭内として兵庫津のまち全体を城下町とする縄張りとなっていた。
即ち、兵庫津の外郭は総曲線(総構)と考えられ、その曲輪の門として
惣門と称されたのではないかと推測される。
この門は、明治八年外輪堤(都賀堤)とあわせて撤去された可能性が高い。
なお、平成十三年度に実施した柳原惣門調査会による調査と、
平成十四年度に実施した埋蔵文化財調査(兵庫津遺跡 第二十九次調査)の
発掘結果を参考として推定復元図を作成した。」
平成十五年十二月吉日
神戸市
岡方協議会
発掘調査について柳原蛭子神社のHPに平成14年10月6日の発掘現場説明会
の写真と解説がありましたのでリンクさせていただきます。
上記の西の玄関口であった柳原惣門跡に対する兵庫津の東の玄関口は湊口の惣門で
現在の湊八幡神社に石碑と説明板があります。
石碑の写真を撮っていなかったので説明板の写真と現在の湊八幡神社の拝殿の写真
を紹介します。 下の2枚の写真 撮影日:2011-2-21


昭和4年12月 岡久穀三郎氏と福原潜三郎氏による説明板には下記のように
書かれています。
「西国往還に設けた兵庫の出入口の惣門である。
東より来る西国往還は相生橋より相生町を経て、市電気局前に来り、
進んで此の惣門を入り、兵庫津の湊・江川・木戸・木場・小物屋・北仲の諸町、
今の所謂兵庫本町を進み、南仲町今の神戸商業銀行の前を右折し、
小廣・神明・逆瀬川・東柳原・西柳原の町々を過ぎ、
柳原口にあった柳原惣門を出て、斜めに今の長田交又点に出て、
西代を経て須磨に向かった。
兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命にによって、
花熊城を攻略し、その功によりて兵庫を治し、城を築く。
其時、湊口・江川口・永澤口・三川口・問屋口・皆関門番所を設け、
市中にも宮内・匠・松屋・魚棚・島上の諸町に、中濱門として番所を設けたが、
徳川時代に入り、青山氏が此の地を領した時、悉く之を破却し、
湊口・柳原口の西門を残した。
古図によれば、惣門内には何れも番所があった。
更に北番所の傍に高札があったが、幕末の地図によれば門外左側に
高札所が移転している。これは門の修築び当たり番所を廃し、
高札所を門外に移したものと思料する。」
by seiyo39
| 2011-05-20 17:51
| 神戸情報
|
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