東遊園地にある加納宗七像 on 2011-6-21 |
紹介します。
加納宗七(1827-1887)の生涯についてWikipediaより引用
させていただきます。
「文政10年(1827年)6月23日、和歌山城城下町の北ノ新地分銅町(現在の
和歌山市北ノ新地分銅町)に生まれる。生家は紀州藩の御用商人で、酒造業や
廻船業を営んでいた。
倒幕運動に参加し、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬が
暗殺されると、三浦休太郎が坂本龍馬殺害に関与したとの情報を海援隊に
もたらし、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光らとともに三浦を
襲撃(天満屋事件)。この襲撃は失敗に終わり、宗七は追手から逃れ開港直後の
神戸に移住し、材木商、廻船、舟宿などを営んだ。
1871年(明治4年)、明治政府が計画した生田川の付け替え工事を請負い、
3か月で工事を完了させた。宗七は17万坪に及ぶ旧生田川の埋立地や堤防跡を
娘婿の有本明とともに兵庫県から落札し、区画整備を行った。
この土地の一部には宗七の名にちなんで「加納町」という地名がつけられた。
1873年(明治6年)、宗七は当時の神戸港が台風によって大きな被害を受ける
ことに対処すべく、生田川の河口に「加納港」と呼ばれる避難港を建造した。
この避難港は1915年(大正4年)に埋め立てられ、国鉄神戸臨港線神戸港駅が
建設された。
明治20年(1887年)5月5日没。1934年、神戸市は宗七の銅像を生田川上流に
建設した。この銅像は太平洋戦争中に供出された。
1981年3月、東遊園地内に加納の功績をたたえるモニュメントが建設され、
再び銅像が設置された。」
上の写真は加納宗七像(左の隅)と加納宗七の題字(陸奥宗光の書による)
多分前の部分は旧生田川を表わしたものだと思います。
このモニュメントの前に加納橋の欄干もあるのですが、写真を撮るのを失念
していました。
上の2枚が加納宗七の銅像の写真です。
旧生田川は現在のフラワーロードが流れの中心であった。天井川であることから
氾濫が多く、旧生田川右岸にあった外国人居留地もたびたび水に浸かることから
川の付け替えが行われ現在の新生田川の川の流れとなった。
当時建設されたフラワーロードは幅18m、延長1.6kmで東西に街区が設けられ
明治6年(1873)5月西の街区を加納町と名づけた。
上記にWikipediaの解説に出てくる避難港の建造であるが、名称は加納湾とも
呼ばれていた。(現在は埋め立てられ存在しない)
加納宗七の娘婿である有本明の名前をとった有本町も明治6年には存在したが、
定着せず現在は有本町の名前は存在しない。
上の写真は陸奥宗光の書にる加納宗七の題字。
上の写真はフラワーロードの看板。
神戸市の花の名所50選にも選ばれています。