津山出身の偉大な蘭学者箕作阮甫(みつくりげんぽ) 津山散策 その1 |
その途中、津山でバスの待ち時間を利用して箕作阮甫の旧宅や
津山洋学資料館を訪問しましたので写真紹介します。
7月13日、岡山駅からJR津山線で津山行きの快速列車に乗る。
その快速列車が下の写真です。
下の写真は津山駅前の洋学者箕作阮甫先生の25歳の像である。
箕作阮甫についてWikipediaによる解説を引用させていただきます。
箕作 阮甫(みつくり げんぽ)、寛政11年9月7日(1799年10月5日) - 文久3年6月17日
(1863年8月1日)は、日本の武士・津山藩士、蘭学者である。
津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として美作国西新町(後に津山東町、現在の
岡山県津山市西新町)に生まれる。医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)
からで、西新町に住み開業した。
父貞固の代になり天明2年10月24日(1782年11月28日)津山藩主松平家の
「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。
阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくして、家督を相続することになる。
藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には
京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。
文政2年(1819年)には、修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、
翌年大村とゐと結婚した。やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、
文政6年(1823年)には、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、
以後洋学の研鑚を重ねる。
したの写真の像は、西洋の学問を志し、文政6年(1823)藩主に随行して
初めて江戸へ旅発とうとする立志の姿である。
上の写真は箕作阮甫が1799年に生まれてから戸川町に転居するまでの13年間を
過ごした箕作阮甫の旧宅である。
箕作阮甫旧宅の基本情報
住所:岡山県津山市西新町6番地
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡7(旧宅)による指定
昭和50年3月18日付け文部省告示第30号
昭和50年(1975)から昭和51年(1976)に約23百万円で解体復元された。
公式HP
地図はこちら
上の写真は津山洋学資料館の庭にある箕作阮甫の像です。
箕作阮甫が江戸に出て65歳で生涯を閉じるまでの足跡をWikipediaより引用させて
いただきます。
幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員
として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。
日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・
『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認
されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。