湊川の戦い 楠正成の陣の遺蹟 in 会下山公園 on 2011-3-14 |
撮ってきましたので紹介します。
石碑には大楠公 湊川陣之遺蹟と書かれています。
湊川の戦いについてWikipediaより引用させていただきます。
「湊川の戦いは1336年7月4日((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川
(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義
兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間
で行われた合戦である。」
湊川の戦いについてWikipediaの解説
楠木正成と正季兄弟は足利義貞の軍に一方的に破れ大倉山にある廣厳寺(通称楠寺)
で刺し違えて自害する。
楠正成の解説 By Wikipedia
会下山公園からの神戸の街の眺望の写真(下)も載せておきます。
楠正成関係の小生のBlog1 楠正成終焉の地伝承の地
楠正成関係の小生のBlog2 大楠公像 in 湊川公園
楠正成関係の小生のBlog3 慶雲寺の矢拾地蔵
楠正成関係の小生のBlog4 湊川神社
話題が変わるが楠正成を称える唱歌に「桜井の訣別」(「湊川」という唱歌が後にこの名前
になった)。
奥山朝恭(ともやす)の作曲で歌人で国文学者の落合直文が書いた詩に曲をつけた
バラードで明治24年(1891)奥山朝恭が兵庫県尋常師範(現神戸大学発達科学部)に
奉職中に作曲された。
曲の最初の部分のみ記載しておきます。
「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に 散るは涙かはた露か」
「正成(まさしげ)涙を打ち払い 我子(わがこ)正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫へ赴かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん いましはここまで来(きつ)れども
とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ」
奥山朝恭(おくやまともやす)(1858-1943)の略歴
安政5年(1858)江戸本所生まれ
音楽教育者、作曲家、後に岡山の西洋料理店(元浩養軒)を経営。
大阪清水谷高女、兵庫県尋常師範、岡山師範学校(明治26年より9年間)で音楽を教える
昭和18年(1943)死去