牧野富太郎 植物研究所跡 in 神戸市兵庫区会下山公園 |
撮ってきましたので紹介します。
撮影:2011-3-14
上の写真が牧野富太郎 植物研究所跡の石碑がある場所です。
石碑の近くには妻の名前をつけた「スエコザサ」が植えられていました。
上の写真は牧野富太郎 植物研究所跡の石碑のアップ写真です。
碑の説明文には、下記のように書かれています。
世界的な植物学者“牧野富太郎”博士の研究所が大正七年から昭和十六年まで
この地にあった。 植物研究所は、南蛮美術収集家として著名な池長孟が牧野富太郎
のために提供したものである。
日本の植物分類学の先駆者である牧野富太郎は「ヤマトグサ」を初め数々の新種を
発見し、独学で研究の結果六十六才で理学博士、九十才で文化功労者となり、
昭和三十二年九十六才で没した。
Wikipediaより牧野富太郎博士の足跡をたどりたいと思います。
詳細はこちら
「文久2年(1862年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれ、
幼少のころから植物に興味を示していた。
10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し
、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。
小学校を中退した理由として、酒屋だったので、小学校で学業を修め、それで身を立てる
ことは全く考えていなかったからだと述べている。
酒屋は祖母と番頭に任せ(両親は早くになくなった)、地元の学校の教師などから英語を
学び、気ままな生活を送っていた[1]。植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、
欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まった牧野は19歳の時、お供を2人連れて
上京した。
22歳の時には東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、
やがて25歳で、共同で『植物学雑誌』を創刊した。
その後、26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。
今で言う植物図鑑のはしりである。それから牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の
地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表した。
明治23年(1890年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の
花の標本採集中にみなれない水草を採集する機会を得た。
これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを
自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
31歳で帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
厚遇はされず、経済的にも苦しかった。
大正15年(1926年)には津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て、『植物研究雑誌』
を創刊した。
大正元年(1912年)から昭和14年(1939年)まで東京帝国大学理科大学講師。
65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に
翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を
重ねながら現在も販売されている。
昭和25年(1950年)、日本学士院会員。昭和26年(1951年)、89歳のとき、
第一回の文化功労者となる。昭和28年(1953年)、東京都名誉都民。
昭和32年(1957年)1月18日、94歳で死去、没後従三位に叙され、
勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。
2009年映画「黄金花」で牧野富太郎をモデルにした”牧老人”を原田芳雄が演じた。」
上の写真は現在も販売されている牧野富太郎博士の著書「植物記」の広告。
牧野富太郎の故郷、高知市に高知県立 牧野植物園があるようです。
ひとはくで生物多様性の研究をされている鈴木武研究員がミニコラムで
牧野富太郎博士について上手くまとめられていましたのでリンクさせて
いただきました。
牧野富太郎博士について