長浜散策記 その1 竹生島 宝厳寺 |
散策記の第1回は西国三十三箇所観音霊場めぐり第30番札所の竹生島の
宝厳寺を写真紹介します。
竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)の基本情報
住所:長浜市早崎町1664−1 TEL:0749-63-4410
公式HP
宗派:真言宗豊山派 本尊:弁財天像
日本三大弁才天の1つ 他の2つは厳島神社と江ノ島神社
上の2枚の写真は本堂。昭和17年(1942)に再建された建物である。
本尊の弁財天像は本堂の厨子の中に納められています。
Wikipediaによる寺の歴史由緒の紹介
琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島(ちくぶしま)に位置する。竹生島は周囲2キロメートル、
面積0.14平方キロメートルほどの小島で、島の周囲は南東部にある船着き場を除いて
ほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)
の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、文字通り信仰の島である。現在は宝厳寺と
都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれているが、このように区別されるように
なったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から
近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として
都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。
浅井姫命は、浅井氏の氏神とも言われ、湖水を支配する神とも言われるが、
平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視される
ようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、
都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。
宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。
行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの
社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創
を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、
弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、
行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。
同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の
浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。
当初は竹生島大神宮寺と称し、東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃
から近江国の他の多くの寺院同様、比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。また、平安時代末期頃からは観音と
弁才天信仰の島として栄えた。
中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに
大火があったが、その都度復興している。永禄元年の大火後、慶長7年-8年
(1602-1603年)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。この際復興
されたのが唐門、渡廊、観音堂、ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)である。
中でも唐門と都久夫須麻神社本殿は、豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)
または伏見城の遺構を移築したものといわれる。
明治の神仏分離の際、時の政府は弁才天社を平安時代の『延喜式』に見える
「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、仏教寺院としての宝厳寺は
廃寺の危機を迎えるが、寺側は、弁才天は仏教の仏であると主張して譲らなかった。
結局、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分離することになり、
明治7年(1874年)に「寺」と「神社」の境界が決まり、明治16年(1883年)には
寺の財産と神社の財産が区別されて今日に至っている。現状、宝厳寺と
都久夫須麻神社は別法人であるが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡廊で
直接連絡しており、両者はもともと不可分の関係にあることがわかる。
上の写真は国の重要文化財に指定されている石造五重塔。
現地の説明書には次のように書かれていました。
「初重塔身の四方には四仏が配置され、台石の格狭間(ごうざま)の形や各重笠石の
反りの形状などから鎌倉時代の特徴が見られます。五重石塔で重要文化財の
指定を受けているものは、全国で七基しかなく、これはその一つです。石材は
比叡山中から採堀される小松石により造られた石造りの五重塔です。
豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが
後補のものとなっています。」
上の写真は本堂に向かって右手にある不動明王。
上の写真は三重塔。2000年に再興されたものである。
上の写真は小谷城跡からみた竹生島です。
浅井三姉妹も見たであろう景色である。
上の写真は唐門。国宝に指定。豊国廟(京都の東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の
極楽門を移築したものと言われる。
上の写真は都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)。