長浜散策記 その9 長浜 豊国神社 |
長浜豊国神社の基本情報
住所:長浜市南呉服町6-37 TEL:0749-62-4838
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豊国(ほうこく)神社のリーフレットより豊国神社の由緒を引用させていただきます。
太閤さんは、天正2年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並み造りに着手されました。
その後、約10年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも
長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正19年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで
大きな恩典になりました。
太閤さんが、慶長3年(1598)8月18日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の
豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。
ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は
京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、
一計を案じて寛政5年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て
一社を建立、太閤さんを裏に隠してお祀りました。
これが『十日戎』の始まりです。
弘化3年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、
豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。
その名残が東の外堀に架かる『みのり橋』です。
明治維新が過ぎ、大正9年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、
太閤さんをお祭りする行事が市民挙げて盛大になりました。
太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって
戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。
合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの
腹心の部下であった所以による神々です。
上の写真はJR長浜駅から近い側からの本殿の入口。
上の写真は本殿の拝殿。
秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898)に拝殿が再建された。
上の写真は長浜豊国神社の御祭神を記したものです。
「豊国大明神」こと豊臣秀吉のほか、事代主大神(恵比寿宮)、加藤清正、
木村重成を祭神としています。
上の写真は拝殿の前に置かれている恵比寿さん。
毎年1月の9日、10日、11日には十日戎祭が行われます。
また、豊公まつりや子供みこしを中心とした秋祭りは毎年10月の土日に実施
されます。
上の写真は出世稲荷とも称される稲荷社。
上の写真は豊臣秀吉公の腹心、加藤清正ゆかりの虎石
現地の説明板他より由来について引用させていただきます。
秀吉公 長浜城主(1574~1585)のとき幼少より育てた寵臣 加藤寅之助清正が
長浜城内の庭に寄進した庭石を太閤さんは大変お気にいりで虎石と呼んでいました。
元和元年(1615)に長浜城を廃して彦根城へ移築する時この石は大通寺へ移設
されましたが、毎晩々々「いのう~いのう~」と虎が吠えるように鳴き叫びますので、
豊国神社へ戻したところ静かに鎮座したという説話があります。
以後「霊石虎石」と呼ばれて瓢箪池の畔にあります。
上の写真は天満宮。
上の写真は加藤清正公の銅像。現地の説明板には下記のように書かれています。
清正公銅像再建略記
先に川崎米吉氏より奉納された加藤清正公の銅像は 大東亜戦争の末期に
供出され 爾来三十有余年台石のみを残したまま今日に至りました
今般 古稀の祝を記念し且つ前奉納者の意思を継いで 再建し奉納する
昭和56年7月吉日
森脇酸素株式会社
森脇産業株式会社
社長 森脇六太郎
富山県高岡市問屋町82
製作 一ノ瀬高級美術銅器製作所
上の写真は黒壁スクエア側からの長浜豊国神社の入口。
上の写真は長浜観光の目玉の一つである六瓢箪めぐりのPRの看板。
豊国神社は近江長浜6瓢箪巡りの第一番札所です。
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