長浜散策記 その10 小谷城跡 |
小谷城は日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から
南の尾根筋に築かれ本丸のある場所は標高350mとなっています。
浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
浅井亮政,久政,長政と三代50年にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城で
あったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた3年後の、
天正元年(1573)8月、清水谷から攻め上った織田軍により浅井久政、浅井長政
ともに自刃に追い込まれ落城した。
浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の
地に新たに長浜城を築いた後は廃城となった。
今年の1月から12月4日まで江・浅井三姉妹博覧会が開催されており、
JR長浜駅から、ふるさと館をはじめとする3館の展示館入場券と会場までのバスが
セットされた券が1,000円で販売されておりそれを利用して小谷城跡に出掛けた。
江・浅井三姉妹博覧会の公式HP
ふるさと館から小さなバスに乗り換えて標高300mの地点まで大手道を登ります。
最初番所跡に到着します。現地の案内板には石碑のほか上の写真のように、当時の
姿を推察した絵が描かれています。イメージが湧いて大変親切な案内だと思います。
次に御茶屋に到着します。番所のすぐ上にある土塁で本丸のある主郭の先端
に位置する前後に別ける低い土塁がある。
上の写真は馬洗池。石垣は当時のままだというガイドさんからのコメントがありました。
上の写真は御馬屋と虎御前山などの遠景を臨む。
この付近は木でうっそうとしていたらしいが文化庁から木を伐採することが許可され
このように見通しの良い景観となったそうです。
虎御前山は小谷城攻囲戦で織田信長が本陣を置いたところです。
上の写真は首据石。黒金門(くらがねもん)の手前にあります。天文2年(1533)
六角氏との合戦のとき京極氏の重臣であった今井秀信が敵方に内通したことで
神照寺で打ち首にし、その首をこの石の上に置き見せしめにしたといわれている。
上の写真は大広間。別名千畳敷きとも言われいます。長さ85m、幅35mあり
昔は建物の下に敷く敷石が整然と並んでいたそうです。(ガイドさんの説明)
いよいよ本丸に進んでいきます。こちらが標高350mの地点。
上の写真は本丸跡と千畳敷の説明板。
上の写真は浅井家とその家臣団の供養のための五輪塔です。
天正元年(1573)の小谷城攻囲戦では約700人の犠牲者が出たそうです。
小谷城攻囲戦以前の状況について簡単に記述します。1570年の姉川の合戦に
敗れた浅井長政は堅固な山城小谷城に籠城し織田信長と対峙した。
一方、織田信長は姉川合戦勝利の直後に小谷城の支城、横山城を落とし
羽柴秀吉を城代において牽制し、浅井の切り崩しにかかった。また浅井方の武将
磯野員昌は小谷城の支城佐和山城に立てこもったが信長軍に包囲され、小谷城との
連絡を絶たれたことから元亀2年(1572)降服した。
さらに、小谷城の西に位置する阿閉貞征(あつじ さだゆき)が城主である山本山城が
天正元年(1573)織田方へと鞍替えしてしまい、小谷城は孤立した。
元亀3年(1573年)7月、5万の大軍を率いて江北に出陣し、虎御前山に本陣を置いて
砦を修築し、小谷城攻めの構えを見せた。朝倉義景と朝倉景鏡が浅井長政の要請で
2万の兵を率いて小谷城の北に布陣したが、義景は小谷城も虎御前山を見下ろす
ことができる小谷山頂上の大獄に着陣したが形勢不利とみた朝倉軍が撤退するところを
織田信長に強襲され越前まで攻め込まれ朝倉氏は滅亡した。
その15日後の天正元年(1573)8月27日、浅井久政は秀吉に小谷城小丸まで
攻められ自害した。翼28日、信長みずから京極丸に上り、全軍を指揮して、長政が
籠城する本丸を攻めた。
その夜、浅井長政は正室のお市と娘の三姉妹(茶々、初、江)とともに信長のもとに
送還した。9月1日、赤尾屋敷内で赤尾清綱と弟の浅井政元らと共に自害した。
50年続いた浅井家の滅亡である。
上の写真はふるさと館に展示されていた浅井長政の像です。
上の写真は甲冑姿の私です。(同じく江・浅井三姉妹博覧会ふるさと館にて)
上の2枚の写真は小谷城付近の地形を示したもの。
上の写真は浅井長政の家族の像。