神戸文化ホールの壁画 あじさい on 2011-9-15 |
きましたので紹介します。
壁画の前の植え込みの前から撮ったものです。
この作品は智恵子抄などで著名な洋画家の高村智恵子氏が1934年に書いた
紙絵を原画として1973年に田中琴氏が陶板を監修して製作されたものです。
以前、小生のBlogでも紹介しました。(下記を参照ください)
神戸文化ホールと壁面のあじさい
改めて高村智恵子氏について調べてみました。By Wikipedia
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年5月20日 - 1938年10月5日、旧姓長沼)は、
日本の洋画家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した
詩集『智恵子抄』で有名である。
1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市)の酒造業斎藤今朝吉
(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。
戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、資産家であった。
1903年、福島高等女学校(現・福島県立橘高等学校)を卒業。日本女子大学校に入学。
油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、女性洋画家
(当時では珍しかった)の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学んだ。
1911年には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、
若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。
智恵子と光太郎同年12月、柳八重の紹介で光太郎と出会い、1913年(27歳)一緒に
上高地に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、1914年(28歳)に結婚
(1933年8月23日入籍)。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を
続けていたが、1918年の父今朝吉の死、1929年長沼家の破産・一家離散など
心労が多く、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、1931年8月(45歳)
に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、統合失調症の最初の兆候が現れる。
1932年7月15日(46歳)大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。
1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。
1938年10月5日(52歳)、粟粒性肺結核のため死去。
東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬される。
上の写真は壁画の前に設けられた石碑です。