2011年 10月 03日
橋本宗吉電気実験の地と重要文化財 中家住宅 |
2011年10月1日(土)に大阪府の泉南地域にある熊取町の橋本宗吉電機実験の地と
重要文化財 中家住宅の写真を撮ってきましたので紹介します。
まず、橋本宗吉電機実験の地について写真紹介します。

上の写真は江戸時代中期大坂の蘭学者橋本宗吉(1763-1836)がフランクリンの
凧を使って雷が電気であることを確かめた実験を中家の協力のもとに、中家邸内の
松を使って再現した地の推定場所で、平成8年(1996)3月13日に
熊取町の指定文化財に指定されています。
石碑が平成17年(2005)6月に建立されています。
尚、ベンジャミン フランクリン(1706~1790)が有名な凧による雷の実験をした
のは1752年6月15日のことです。
橋本宗吉は自身の著書「阿蘭陀始剤エレキテル究理原」に泉州熊取谷にて天の火を
取りたる図説として紹介されています。
橋本宗吉の略歴の解説 By Wikipedia
阿波に生まれる(一説には大坂の生まれ)。大坂で傘職人をしていたが、
京都の蘭方医小石元俊と天文学者間重富に才能を見出され、ふたりの
紹介と経済的支援を得て27歳で江戸に遊学する。
江戸滞在はわずかな期間であったが、大槻玄沢の芝蘭堂に学び、
わずか4ヶ月で4万語のオランダ語を習得したといわれ、
玄沢四天王(芝蘭堂四天王)に数えられたという。
大坂へ戻ると小石らのため蘭書を翻訳し、医院と学塾を兼ねた私塾である
絲漢堂を開き診療と教育活動に務める。
また、エレキテルの研究も行っている。文政10年(1827年)大塩平八郎
による大坂切支丹一件が発生すると弟子の藤田顕藏が逮捕されたため、
宗吉も過酷な取調べを受けることになり、絲漢堂も閉鎖に追い込まれた。
その後、無実が証明され釈放されたが、シーボルト事件の影響で蘭学者
への風当たりが強まると宗吉は一時広島県竹原に隠棲した。
後に帰阪し私塾を再開する。天保3年(1832年)天保の大飢饉が発生
すると事態打開を図り奔走するがその最中、病の床に就く。
一時は回復をみせるも天保6年(1835年)3月26日、看病を続けてくれた
1番弟子中天游が突如この世を去り、自身も
天保7年(1836年)5月1日死去。享年74。
著作に『喎蘭新訳地球全図』『蘭科内外三方法典』
『阿蘭陀エレキテル究理原』『西洋医事集成宝凾』ほか。
西洋医学翻訳書『解体新書』を刊行した江戸の杉田玄白らと交友し、
小石元俊とともに東西の蘭学を結ぶ人物と位置づけられ、大坂蘭学の
基礎を築いた人物と評されている。

上の写真は江戸時代中期大坂の蘭学者橋本宗吉(1763-1836)がフランクリンの
凧を使って雷が電気であることを確かめた実験を中家の協力のもとに、中家邸内の
松を使って再現した時の様子を描いたものです。

上の写真は国の重要文化財に指定されている中家住宅の表門と母屋です

上の写真は中家住宅の母屋。
中家住宅の基本情報
所在地:大阪府泉南郡熊取町五門西1丁目26番地
建築年代:江戸時代初期
見学等の問合せ先:熊取町教育委員会生涯学習推進課文化財係
見学は無料です
電 話:072-453-0391
メール:shougaigakusyuu-suishin@town.kumatori.lg.jp
熊取町教育委員会生涯学習推進課文化財係の公式HP
アクセス:JR阪和線熊取駅下車 (1)徒歩15分(2)南海ウイングバス小谷行き(51系統)
五門下車すぐ または山の手台行き(52系統)
昭和39年重要文化財に指定された中家は、平安時代、後白河法皇が熊野行幸
の際に立ち寄り、行宮(仮設の御所)として由緒ある泉南地方の旧家で当主は
代々中左近を名乗り室町・戦国時代には根来寺の氏人となりその勢力を背景に
和泉国や紀伊国北部の田畑を買い集めるなど政治・経済・行政の担い手として
活躍しました。
江戸時代には岸和田藩の七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤め、五門、野田、紺屋
小垣内、宮、久保、下高田の村々の年貢の徴収や年寄や組頭の決定など熊取谷の
行政全般を委ねられていました。
元禄5年(1692)には岸和田藩の藩札の札元に任ぜられ藩の経済にも貢献。
中家からは徳川家の旗本の根来盛重や幕末の思想家中瑞雲斎(1807-1871)
明治時代には衆議院議員を勤めた中辰之助(1867-1936)などの人物を輩出
しています。
中家当主はこの家に昭和30年代頃には住居として利用されていたようですが
大阪市内に引越しされ、それを機に江戸時代の建物を解体し復元されたとのこと。

上の写真は橋本宗吉電機実験の地の遠景です。
重要文化財 中家住宅の写真を撮ってきましたので紹介します。
まず、橋本宗吉電機実験の地について写真紹介します。

上の写真は江戸時代中期大坂の蘭学者橋本宗吉(1763-1836)がフランクリンの
凧を使って雷が電気であることを確かめた実験を中家の協力のもとに、中家邸内の
松を使って再現した地の推定場所で、平成8年(1996)3月13日に
熊取町の指定文化財に指定されています。
石碑が平成17年(2005)6月に建立されています。
尚、ベンジャミン フランクリン(1706~1790)が有名な凧による雷の実験をした
のは1752年6月15日のことです。
橋本宗吉は自身の著書「阿蘭陀始剤エレキテル究理原」に泉州熊取谷にて天の火を
取りたる図説として紹介されています。
橋本宗吉の略歴の解説 By Wikipedia
阿波に生まれる(一説には大坂の生まれ)。大坂で傘職人をしていたが、
京都の蘭方医小石元俊と天文学者間重富に才能を見出され、ふたりの
紹介と経済的支援を得て27歳で江戸に遊学する。
江戸滞在はわずかな期間であったが、大槻玄沢の芝蘭堂に学び、
わずか4ヶ月で4万語のオランダ語を習得したといわれ、
玄沢四天王(芝蘭堂四天王)に数えられたという。
大坂へ戻ると小石らのため蘭書を翻訳し、医院と学塾を兼ねた私塾である
絲漢堂を開き診療と教育活動に務める。
また、エレキテルの研究も行っている。文政10年(1827年)大塩平八郎
による大坂切支丹一件が発生すると弟子の藤田顕藏が逮捕されたため、
宗吉も過酷な取調べを受けることになり、絲漢堂も閉鎖に追い込まれた。
その後、無実が証明され釈放されたが、シーボルト事件の影響で蘭学者
への風当たりが強まると宗吉は一時広島県竹原に隠棲した。
後に帰阪し私塾を再開する。天保3年(1832年)天保の大飢饉が発生
すると事態打開を図り奔走するがその最中、病の床に就く。
一時は回復をみせるも天保6年(1835年)3月26日、看病を続けてくれた
1番弟子中天游が突如この世を去り、自身も
天保7年(1836年)5月1日死去。享年74。
著作に『喎蘭新訳地球全図』『蘭科内外三方法典』
『阿蘭陀エレキテル究理原』『西洋医事集成宝凾』ほか。
西洋医学翻訳書『解体新書』を刊行した江戸の杉田玄白らと交友し、
小石元俊とともに東西の蘭学を結ぶ人物と位置づけられ、大坂蘭学の
基礎を築いた人物と評されている。

上の写真は江戸時代中期大坂の蘭学者橋本宗吉(1763-1836)がフランクリンの
凧を使って雷が電気であることを確かめた実験を中家の協力のもとに、中家邸内の
松を使って再現した時の様子を描いたものです。

上の写真は国の重要文化財に指定されている中家住宅の表門と母屋です

上の写真は中家住宅の母屋。
中家住宅の基本情報
所在地:大阪府泉南郡熊取町五門西1丁目26番地
建築年代:江戸時代初期
見学等の問合せ先:熊取町教育委員会生涯学習推進課文化財係
見学は無料です
電 話:072-453-0391
メール:shougaigakusyuu-suishin@town.kumatori.lg.jp
熊取町教育委員会生涯学習推進課文化財係の公式HP
アクセス:JR阪和線熊取駅下車 (1)徒歩15分(2)南海ウイングバス小谷行き(51系統)
五門下車すぐ または山の手台行き(52系統)
昭和39年重要文化財に指定された中家は、平安時代、後白河法皇が熊野行幸
の際に立ち寄り、行宮(仮設の御所)として由緒ある泉南地方の旧家で当主は
代々中左近を名乗り室町・戦国時代には根来寺の氏人となりその勢力を背景に
和泉国や紀伊国北部の田畑を買い集めるなど政治・経済・行政の担い手として
活躍しました。
江戸時代には岸和田藩の七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤め、五門、野田、紺屋
小垣内、宮、久保、下高田の村々の年貢の徴収や年寄や組頭の決定など熊取谷の
行政全般を委ねられていました。
元禄5年(1692)には岸和田藩の藩札の札元に任ぜられ藩の経済にも貢献。
中家からは徳川家の旗本の根来盛重や幕末の思想家中瑞雲斎(1807-1871)
明治時代には衆議院議員を勤めた中辰之助(1867-1936)などの人物を輩出
しています。
中家当主はこの家に昭和30年代頃には住居として利用されていたようですが
大阪市内に引越しされ、それを機に江戸時代の建物を解体し復元されたとのこと。

上の写真は橋本宗吉電機実験の地の遠景です。
by seiyo39
| 2011-10-03 18:19
| 大阪情報
|
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