福井県出身の総理 岡田啓介氏の銅像 |
撮ってきましたので紹介します。
撮影:2011-9-29
尚、歴代の首相については小生のWebサイトで整理していますので興味のある方は
参照してください。
歴代首相とワンポイント歴史
岡田啓介首相のプロフィール By Wikipedia
岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月21日(1868年2月14日) -
1952年(昭和27年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。
勲等は勲一等。功級は功三級。
海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、
逓信大臣(第37代)などを歴任した。
首相としての在任期は昭和9年(1934)7月8日~昭和11年(1936)3月9日の
611日間である。
慶応4年(1868年)、福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。
1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。
翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や
共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受け
ていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か
陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。
陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった
陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。
1889年(明治22年)海兵(第15期)を卒業。同期には小栗孝三郎、竹下勇、
財部彪、広瀬武夫らがいた。日清戦争に「浪速」分隊長として豊島沖海戦、
黄海海戦、日露戦争では「春日」副長として日本海海戦、第一次世界大戦では
第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに参戦した。
1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、
1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。
その間軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は
避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。
条約締結を実現した。
墓は多磨霊園にあるそうです。
関連Webサイト
2.26事件のときの内閣としても有名である。