平清盛ゆかりの地 雪見御所旧跡の碑 |
住所:神戸市兵庫区雪御所町2-1
写真を撮ってきましたので紹介します。
写真撮影は2011-11-3
まず、Wikipediaから雪見御所の解説を引用させていただきます。
雪見御所(ゆきみのごしょ)は、平安時代末期に摂津国福原京(現兵庫県
神戸市兵庫区雪御所町)にあった平清盛の邸宅。雪之御所、雪御所とも。
仁安3年(1168年)に出家した清盛は遁世生活に入り、福原に別荘である
雪見御所を構えて日宋貿易拡大の拠点とした。
『山槐記』治承4年(1180)11月21日条に安徳天皇の「本皇居」を
「禅門(清盛)の家、雪御所の北なり」と記している。
明治時代に礎石や土器類が多数発掘され、現在湊山小学校の校庭に
「雪見御所旧跡」の碑が建てられている。
1978年の小学校建て替えに伴う調査では平氏時代と断定出来る遺物は
発見されていない。
上の写真が雪見御所旧跡の碑です。
現地の説明板より引用させていただきます。
雪見御所(ゆきみのごしょ)
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、
ここに多くの邸宅を構えた。
治承4(1180)年、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りを
はかったのが「福原遷都」である。
しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しなかった。
「平家物語」などには、平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。
そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪見御所町に所在した可能性が高い。
ただし町名のもとになった古い字「雪御所」の範囲は湊山町南半が過半を占める。
西が石井川、東および北は天王川の西のほとりを北上し、そして西へと弧状にのびる
古道により画される範囲になる。
南限は湊山小学校の敷地を北東隅から南西隅に横切る方向にのび、その南は
「川原」という字名になる。この範囲には一町(約109メートル)四方の屋敷地が収まる。
当事の貴族の邸宅は広い屋敷地の北寄りに建てられるのが一般的で、南に庭園が広がる。
したがって雪見御所の屋敷建物が存在するのは湊山小学校の敷地よりも北側ということになろう。
1986年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)
で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。
これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを踏襲する字境の石垣である
可能性が考えられる。
雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」
のあったこと、また、清盛邸の近隣に子息宗盛邸のあった可能性が当事の貴族の日記の
記述などから知られる。
発掘調査によっても雪御所町の東にある上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の
貴族の邸宅あとの庭園の存在が確認されている。
古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅が
いくつも存在することを推測することができる。
ここ「平野」の地はまさにその名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」
といえるだろう。
この「雪見御所旧跡」の石碑は、明治39年に湊山小学校の校庭より掘り出された、
往時の御所の庭造りに使用されていたと考えられる石に、明治41年に湊山小学校
三代校長篠崎三郎氏が、生田神社宮司田所千秋氏の揮毫を得て、設置したものである。
雪見御所は神社の三合思想により西の位置(酉)の夢野八幡神社、東北の位置(丑)の
祇園神社、東南の位置(巳)の荒田八幡神社の3点を結んだ領域の真ん中に位置して
おり吉相の場所に造営されたと岡山大学の曽我とも子氏はその研究報告で述べられて
います。
上の写真は雪見御所旧跡の碑のある位置を示したものです。
その周辺の平家の屋敷群についても記載しました。
平家物語の第7巻の福原落に下記の記述があります(現代語訳)
全軍が福原の旧里で一夜を明かしました。季節は初秋で、月のころは下弦の月、
この月の出が遅い。月の昇らぬ今夜は、何事もなく静かな夜であり、更けゆくに
つれてますます静けさを増して行きました。屋内に入れぬ人々は草枕にて野宿をし、
その枕は涙にために濡れ、秋の夜露も涙に劣らずしっとりと草葉に落ちて、
ただ見る物、聞く物、すべて悲しみの種になってしまいました。
いつ帰れようとも思われないで、亡き入道相国清盛公がその権勢に任せて都を遷し、
乱の兆によって造営中途にして捨てられた都福原ではありますが、今こうして
再びこの福原の地を訪れ、所々を見てみると、春は花見の岡の御所、
秋は月見の浜の御所、その他、泉殿・松陰殿・馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、
萱の御所、偉い方々の多くの館、五条大納言邦綱卿が命を受けてお造り申された
仮の皇居とされた里内裏などがあります。鴛鴦(おしどり)の形の瓦、
玉を敷き詰めたような石畳、それらどれもが三年の放置を経て荒れ果て、
年経た苔が生して道を塞ぎ、秋の草が門を閉じていました。瓦からは忍草が
顔を覗かせ、垣に蔦が生い茂り、高楼の台は傾いて苔がむしています。
御簾も朽ち果てて寝屋が丸見えとなってしまっています。かように荒れ果てた
室内で眠りを取る人々に、静かに松風が吹きつけ、月の光だけがさしこんで
いるのでありました。
そんな夜が明けての翌朝、福原の旧都に火を放って、天皇をはじめとして
人々はみな船に乗り移りました。都を離れる時ほどではなかったのですが、
この福原の旧都にもそれなりの名残が惜しまれました。海上より燃える火を
眺めるに、塩をとる海人の焚く藻の夕煙、尾根で明け方に鳴く鹿の声、
そこここの渚に寄せる波の音、涙で濡れた袖にかかる月の光、草叢に集まって
鳴く蟋蟀の声、すべて目に見えるもの耳に聞こえてくる音、どれ一つとして
感慨を起こさせ、悲しい思いをさせないという事がありません。
寿永二年(1183)七月二十五日、平家全く、都を落ちる。
平家の一族が家族とともに西国に落ちていく場面で、荒れ果てた福原京の様子と
かって様々な壮麗な屋敷が立ち並んでいた頃のことを回顧している場面が描かれて
います。また、福原が焼かれた場面も描かれています。