雑魚寝堂跡の神戸市立駒ヶ林保育所と海泉寺 |
神戸市立駒ヶ林保育所と海泉寺の写真を撮ってきましたので写真紹介します。
撮影日:2011-11-28
神戸新聞ニュース電子版にも同じ内容の記事が掲載されています。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004603421.shtml
上の2枚の写真が雑魚寝堂跡に建てられた神戸市立駒ヶ林保育所です。
道路側が建物の裏手になります。
神戸新聞の記事によると市立駒ケ林保育所は大正期築の建物で、2013年に
新長田保育所と統合し閉鎖される。
施設は売却か解体されそうだが、地元住民らは、昔の風習にちなみ「婚活の場」
としての活用を提案する。(大月美佳)
同じく神戸新聞記事から市立駒ケ林保育所の建物についての説明を引用する。
大正13年(1924)、旧神戸生糸検査所(同市中央区)などを手掛けた
神戸市初代営繕課長清水栄二の設計で公会堂が建設され、戦後、保育所になった。
雑魚寝堂=ざこ寝堂についても同じく神戸新聞の記事より引用させていただきます。
>江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)
大正12年(1923)までは 市立駒ケ林保育所の建物のあった場所に海泉寺阿弥陀堂が
あり別名雑魚寝堂と呼ばれていた。
また阿弥陀堂が建てられた時期は棟札から文化3年(1815)である。
雑魚寝の風習とはおおぜいの男女が一堂に集まって, 雑魚(ざこ)のように
入りまじって寝る 風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや) や節分などの季節の変り目の
行事におけるおこもり の際に行われた。
最も有名なのが京都大原の雑魚寝で、江文 (えぶみ)神社の拝殿でかつては
節分の夜に行われた。
我が生まれ故郷の京都府宇治においても県(あがた)神社の県祭で
6月5日(かつては5月5日) から6日の未明にかけて行われるが,
梵天に神移しの儀が執り行われた 後はいっさいの灯火が禁じられる。
沿道の家々では男女が雑魚寝して お渡りを待ち、性的な行いも伴うので
種もらい祭ともいわれた。
海泉寺は正応2年(1289)の創建、上記のように市立駒ケ林保育所の建物のあった場所に
あったが、 明治6年(1873)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。
阿弥陀堂=雑魚寝堂は火災後、駒野小学校として利用され公民館などを経た後
大正13年(1924)海泉寺本堂として移築されることとなり、新しく公会堂が建設
されることとなった。
上の写真は2011-11-28撮影の海泉寺本堂と本堂の鬼瓦です。
この本堂は阪神淡路大震災でかっての阿弥陀堂が全壊したため建て直された
ものだそうです。
海泉寺は正応2年(1289)漸岸覚俊和尚(ぜんがんかくしゅんおしょう)が師の
法灯円明国師(ほっとうえんみんこくし)を勧請開山として建立されました。
寺伝では、正和2年(1313)の創建とも伝えられている。
文永3年(1266)宝満寺が覚心禅師の教化で密教から 禅宗に改められ、
大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、
慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。
のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。
慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。
残った宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、
花時には賑わう名所となつていた。
海泉寺に関して過去の小生のBlogにリンクしておきます。
海泉寺
多くの方から海泉寺のことや雑魚寝堂のことについてコメントがあり有益情報満載です
海泉寺訪問記 on 2010-8-9
海泉寺にある尼崎藩2代藩主 青山幸利の報謝碑