寶満寺(宝満寺)と青山幸利の慰霊碑 on 2011-12-26 |
訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
宝満寺(寶満寺)の基本情報
住所:神戸市長田区東尻池町2丁目11-1 TEL:078-671-2844
山号:金剛山
宗派:臨済宗南禅寺派(法燈派) 南禅寺派の中でも格式が高く、別格本山だという事です
本尊:大日如来坐像
福原西国 三十三観音霊場 第2番札所
地図はこちら
上の写真は金剛山 宝満寺(寶満寺)の本堂です。 撮影:2011-12-26
寶満寺の由緒について記す。
大同3年(808)弘法大師によって和田山の字寺山(現在の兵庫区和田山通付近)に
創建され、宝満山金剛峰寺と称した。
唐から帰国した弘法大師が最初に開いた寺といわれ、後に弘法大師が高野山に
金剛峯寺を建てたことから、現在名の金剛山宝満寺となった。
治承4年(1180)平清盛が福原内裏を造築の際、福原京の守護寺として、現在地に移した。
この時、平清盛は自筆の「護国殿額」と清盛自身の懐中仏「金銅帝釈天立像」とともに
伽藍の大修理を行っています。
境内の横に「福原内裏分石」と「福原内裏往古仏体刻付棒石」の標石が保存されています。
文永3年(1266)宝満寺は寛心禅師の教化で真言宗から禅宗に改め大いに栄えた。
その時、亀山天皇の勅命があった。塔頭三院末寺三ヶ寺を持ったという。
それから三度の兵火と昭和の空襲に遭い堂宇の大部分を焼失した。
3度の兵火と空襲の災いの詳細は以下のとおり。
寿永3年(1184)の一の谷合戦。
建武3年(1336)の湊川合戦。この時足利尊氏は同寺を本陣とした。
天正7年(1579)荒木村重の焼き討ち。
昭和20年(1945)6月5日の大空襲。
大空襲で宝満寺の寺史に関する文書資料は焼失してしまったが、大日如来坐像と
いくつかの寺宝は境内の枯れた井戸に隠されていて被災を免れた。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災でも伽藍のすべてが損傷したが
火災からは免れ修復された。
上の写真は尼崎藩家老の天野八郎兵衛の顕彰碑である。名前が刻まれています。
上の写真は尼崎藩第2代藩主青山幸利の慰霊碑。
戒名の成覚院殿前光禄廓誉一法道山大居士が書かれています。
上の3枚の写真は境内山門の脇にある尼崎藩第2代藩主青山幸利の慰霊碑と
家老の天野八郎兵衛の顕彰碑である。
尼崎藩第2代藩主青山幸利の解説 By Wikipedia
青山 幸利(あおやま よしとし)は、摂津尼崎藩の第2代藩主。
元和2年(1616年)、初代藩主・青山幸成の長男として生まれる。
寛永20年(1643年)に父が死去したため、家督を継いで第2代藩主となる。
このとき、父の遺言で弟たちに合わせて6000石を分与したため、尼崎藩は
4万8000石となった。
万治2年(1659年)2月21日に奏者番に任じられる。延宝5年(1677年)、
畿内・播磨における天領の検地を務めた。藩政では名のある浪人を登用して
家臣団の刷新を行ない、治水事業を行なっている。
貞享元年(1684年)8月2日に死去。享年69。長男の幸実は病弱だったために
廃嫡し、幸実の長男の青山幸督が跡を継いだ。
福原西国観音霊場のリストは下記(33箇所)のとおり。
1番 医王山薬仙寺 時宗
2番 金剛山宝満寺 臨済宗 (今回紹介)
3番 龍雲山海泉寺 臨済宗
4番 紫雲寺藤之寺 浄土宗
5番 海運山 満福寺 曹洞宗
6番 月見山浄徳寺 真言宗
7番 上野山須磨寺 真言宗
8番 桂尾山勝福寺 真言宗
9番 毘沙門山妙法寺 真言宗
10番 神撫山禅昌寺 臨済宗
11番 観音山常福寺 真言宗
12番 白華山妙楽寺 臨済宗
13番 普門山福聚寺 臨済宗
14番 東海山長福寺 浄土宗
15番 上野山願成寺 浄土宗
16番 鷲峰山霊山寺 浄土宗
17番 潮音山東福寺 浄土宗
18番 天門山祥福寺 臨済宗
19番 花崗山福徳寺 浄土宗
20番 薬王山宝地院 浄土宗
21番 医王山廣厳寺 臨済宗
22番 延喜山八王寺 曹洞宗
23番 大光山福海寺 臨済宗
24番 巨龍山福厳寺 臨済宗
25番 梅松山満福寺 時宗
26番 真如山法界寺 浄土宗
27番 円光山極楽寺 浄土宗
28番 臥竜山恵林寺 臨済宗
29番 経島山来迎寺 浄土宗
30番 欣求山極楽寺 浄土宗
31番 浄国山金光寺 真言宗
32番 宝積山能福寺(兵庫大仏) 天台宗
33番 西月山真光寺 時宗
客番1 寿宝山長福寺 臨済宗
客番2 天照山明泉寺 臨済宗
客番打納 海向山阿弥陀寺 浄土宗
奥之院 摩耶山 天上寺 真言宗
福原西国三十三所観音霊場第二番札所としての宝満寺
札所本尊:聖観世音菩薩
札所詠歌:此寺へあゆみは 諸人のわたり絶へまぬ真野の継橋
かっての東尻池村の南の出口に真野の里があり小さな継橋がかかっていた。
昭和20年の戦災で壊滅したが、神戸市の区画整理事業の折、宝満寺に
運ばれた。
下の写真は観音堂。
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[高市早苗稲田朋美西田昌司自民党国会議員がネオナチ団体代表議員会館]http://richardkoshimizu.at.webry.info/201409/article_24.html
普段このブログのメンテを行っていない為、返答が遅くなって申し訳ありません。
まず千竈時家娘姫熊ですが言葉そのものを聞き始めでネットで少し調べて見ましたが
手がかりとなる情報は得られませんでした。
次に尼崎藩の家老天野八兵衛と鎮西天野遠景の関係ですがこれもネットで調べた範囲ですが
有効な答えは得られませんでした。返事にはなっていないと思いますが誠意を尽くして
調べて見ての結果です。