姫路城と龍野 散策記 その4 姫路城(4) |
本日は2009年8月8日に姫路城大修理が起工し6年後の
2015年に完成予定の本丸(天守閣)の修理施設で天空の白鷺と
名付けられた施設の見学記をお届けします。撮影:2011-12-12
上の2枚の写真は修理施設8階からの最上層(6階)の屋根修理の様子です。
本年11月19日の新聞各紙で壁の窓枠が5個ではなく7個あったことが報じられ
話題になっていました。今回の修理では復元せず5個の窓枠のままでいくとの予。
姫路城は1601~1609年池田輝政により築城されているのだが、当初7個の窓枠
で設計されていたが、1605年の慶長の大地震の際、急遽設計変更されたものだろう
と推論されている。東西の各面も当初窓枠5個の設計が3個に変更された。
上の写真は最上層(6階)の屋根の瓦の名称。
上の写真は修理施設7階からの最上層(6階)の壁の修理の様子です。
上の2枚の写真は修理施設8階からの姫路市街地をオーバービューしたものです。
池田輝政の紹介 By Wikipedia
永禄7年(1564年)12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲
(現・愛知県清須市)に生まれた。のちに、信長に仕え、天正8年(1580年)の
花隈城攻略の際(花熊城の戦い)には、その軍功により信長から感状を授けられた。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると、父兄と共に
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で
信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝とともに棺を担いだ。
天正11年(1583年)、父が美濃国大垣城主となると、輝政は池尻城主となった。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の池田元助が討死した
ため家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。
その後も紀州征伐や富山の役、九州の役など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。
天正15年(1587年)、羽柴氏を与えられる。
小田原の役後の天正18年(1590年)には、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡
(東三河)において15万2000石に加増され、吉田(現・愛知県豊橋市)城主となった。
また、在京の粮米として伊勢国小栗栖の庄を与えられた。文禄の役に際しては
吉田城に留まり東国警衛の任にあたった。
豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。
また、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・
若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。
文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近。また、武断派の諸将らと共に
行動し、文治派の石田三成らと対立し、慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と
文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則や
加藤清正らと共に石田三成襲撃事件を起こした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い
では徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、
福島正則とともに功を挙げた(岐阜城の戦い)。
戦後、播磨姫路52万石に加増移封され、名を「輝政」と改めた。慶長6年(1601年)
から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。
慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、
加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。
また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の
篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、
篠山城普請では総普請奉行を務めた。翌16年(1611年)3月には、二条城における
家康と秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)、正三位参議、および
松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと称された(宰相は参議の唐名)。
また、次男・池田忠継の備前国岡山藩28万石、3男・池田忠雄の淡路国洲本藩6万石、
弟・池田長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)
もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が
繁栄する基盤となった。
慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて急死する。死因は中風。享年50。
輝政の死は秀吉の呪いとも噂された。
家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。