姫路城と龍野 散策記 その8 龍野公園、文学の小径、龍野神社、聚遠亭、野見宿禰神社 |
1.犬養武、篤子の比翼歌碑
上の写真は犬養武氏と夫人の篤子氏の歌碑である。
小動物園の近くに建っています。説明板より引用(一部加筆)させていただきます。
犬養武氏は岡山県高梁の人 大正14年関西学院大学卒
龍野女学校に英語教師として教鞭をとる。
昭和4年「水甕」に入って尾上柴舟に師事し、7年同人となった。43年「水甕」の選者
歌碑の歌は昭和28年の御題「船出」の選にあずかったもの。
夫人の篤子も「あららぎ」の歌人、昭和31年の御題「早春」に与選したもの
歌碑の歌
檣灯(しょうとう)はなほ ともりつつ あさあけの
うしほにのりて 舟いでむとす
早春の 峠のみちは あかるくて
もろ木の芽ふく 匂ひただよふ
2.旧制第一高等学校 寮歌と矢野勘治顕彰碑
上の写真は旧制第一高等学校寮歌の歌碑と矢野勘治顕彰碑です。
西寮寮歌「春爛漫の花の色」、東寮寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」の作者
矢野勘治は明治13年(1980)龍野町日山 三木定七の次男として生まれる。
藩の儒者 矢野家の養子となる。
一高時代に正岡子規の門にはいり,短歌や俳句をまなぶ。俳号は興安嶺。
一高時代の明治34年同高西寮寮歌「春爛漫(らんまん)の花の色」,
35年東寮寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞した。
東京帝大卒業後は横浜正金銀行に入り銀行家として活躍した。
昭和36年(1961)6月18日死去。
3.赤とんぼの碑と三木露風氏のレリーフ
上の写真は赤とんぼの碑と赤とんぼの作詞者、三木露風氏のレリーフです。
三木露風氏の解説 By Wikipedia
三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)
は日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。
異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。
若き日は日本における象徴派詩人でもあった。
4.龍野神社
龍野神社の解説 By Wikipedia
龍野神社(たつのじんじゃ)は兵庫県たつの市の鶏籠山南西麓に鎮座する神社。
旧社格は郷社。祭神は龍野藩脇坂家初代の脇坂安治。
1862年(文久2年)に龍野藩第9代藩主脇坂安宅が、賤ヶ岳の七本槍に数えられる
龍野藩脇坂家初代の脇坂甚内安治(1554年-1626年)を祭神とする脇坂家の
廟として脇坂家上屋敷(現聚遠亭)の東隣に建立した神社である。
1875年(明治8年)9月、郷社に列格した。
5.聚遠亭
上の写真が聚遠亭です。当日が月曜日で休館で中には入れず。
老中松平定信が脇坂氏の上屋敷を訪問した際、庭園から龍野城城下町越しに
淡路島や瀬戸内海の島々を望める眺めの素晴らしさから当地を「聚遠の門」と呼んだ。
その故事から浮堂は「聚遠亭」と命名された。
6.野見宿禰神社と展望台からの龍野市街の眺望
上の写真は野見宿禰神社と展望台からの龍野市街の眺望です。
野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)の解説 By Wikipedia
相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。
出雲墓屋伝承地に建てられ、神社敷地内に野見宿禰の塚がある。
龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。
この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで
石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている。
上の写真は名横綱栃錦清隆の直筆の力水。龍野神社から野見宿禰神社に登る
途中にあります。
上の地図に各場所の位置が示されています。