平清盛ゆかりの地 in京都 その5 忠盛灯籠 in 八坂神社 |
本日は平清盛の父平忠盛に纏わる忠盛灯籠です。
設置されている場所は八坂神社の摂社 大神神社の左手にある忠盛灯籠を
写真紹介します。昨日(2012-1-29)雪がちらつく京都での取材写真です。


上の2枚の写真が八坂神社内にある忠盛灯籠です。
八坂神社では最も古い灯籠だそうです。
撮影日:2012-1-29
現地の説明書きより引用(一部記述変更委)させていただきます。
永久年間(1113~1118年)の頃、白河法皇が祇園の女御(にょうご)の
許(もと)に赴(おもむ)かれようとしてこのあたりを通られた時、折りしも
五月雨(さみだれ)の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇はお供の平忠盛に、鬼のようなものを討ち取ることを命じられたが、
忠盛は討ち取ることはせず生け捕りにしたところ、
油壷(あぶらつぼ)と松明(たいまつ)とを持ち燈篭に燈明(とうみょう)を
献(たてまつ)ろうとしていた祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯(ともしび)の光を受けて銀の針のように
見えたのであった。
忠盛のとったこの思慮深い行動に人々は感嘆したという。
この灯籠はその時の灯籠であるといわれている。
当日は祇園女御(ぎおんにょうご)の慰霊のために造営された宝篋印塔の写真も
撮る予定でしたが、次の訪問先の相国寺に行く予定があり祇園女御の写真を
撮ることができませんでした。
下記サイトに両方の写真があり説明も充実したものがありましたのでリンク
させていただきました。
target="_blank">http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike78.htm
NHK大河ドラマ「平清盛」について下記に整理しておきます。
NHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率(1月8日)は17.3%であった。
大河史上ワースト3位という先行き不安な幕開けとなった。
ワースト2は下記のとおり。
'89年の「春日局」は14.3%、'77年の「花神」は16.5%であった。
第2回(1月15日)の視聴率は、関西地区で17・2%と、初回18・8%より下がった。
関東地区では17・8%で、初回17・3%を上回った。因みに第3回(1月22日)の関東地区の視聴率は17・2%と平行線であった。
平清盛の大河ドラマか今回で2回目になります。
以前のものは吉川英治の「新平家物語」が原作で平岩弓枝が脚本を書いたもので
昭和47年(1972)に放送されました。
上記の紹介サイト(小生のBlog)
平家物語 巻6 祗園女御に出てくる話です。
平家物語では下記のように書かれています。(部分抜粋)
またある人がいうには、清盛は忠盛の子ではなくて、本当は白河院の皇子であった
のだ、という話があります。
そのわけは、去る永久の頃、忠盛を殿上人にまで昇格させた鳥羽上皇がまだ
天皇だった頃、宣旨などは下されていなかったのですが、世の人々が祗園の
女御と呼んでいる女性がいて、白河院に寵愛されていました。
京都東山の麓の祗園辺りに住んでいたのでそう呼ばれていたのです。
白河院はいつもこの女御のもとへ御幸になっておられました。
あるとき白河院が殿上人数名と院の御所の警護に当たる北面の武士を
数名連れてお忍びで通っていた時のことです。
時は五月二十日過ぎのまだ宵の事で、目に何かが当たってもわからぬ程の
暗闇ではあるし、その上五月雨まで降っていたのであたりを尚一層暗くしていました。
例の女性の家の近くに御堂があって、その御堂の近くまで来た時、五月雨の降る
夜の闇の中できらりと光るものがありました。
辺りが暗かったせいもあって、はっきりとは確認できなかったのですが、
どうやら頭は銀の針を磨いたようにきらめき、左右の手と思しきものを差し上げ、
片手には槌のようなものを持ち、もう片手には光るものを持っていました。院も臣も、
「ああ恐ろしい。これは本当の鬼らしい。手に持っているのは噂の打出の小槌と
いうものじゃろう。どうしたらよいものか」
と一行が騒ぎあっていました。そこで、白河法皇が供の中にいた、当時はまだ
北面の武士の中でも最下級に属する武士であった忠盛をお呼びになって、
「供の一行の中で度胸があるのはお前ぐらいしかいなさそうじゃ。あのものを
射殺すなり、斬るなりしてくれまいか」
と言われたので、忠盛はつつしんで仰せを承って、怪しいもののほうへ向かって
行きました。
心の内では、
「このものは、さして強い相手とは思われぬ。あるいは狐か狸が化けている
のかもしれぬ。正体を確認せぬままにこれを射殺したり斬り殺したりしては
後悔するだろう。生け捕りにするか」
と思いつつ歩み寄って行きました。
忠盛がじっと茂みに潜んで様子をうかがっていると、相手はしばらくしては、
さっと光り、二、三度繰り返し光りました。そこへ、忠盛が走り寄って、
はっと飛びかかり、むずとばかりに組みつきました。
組まれた相手は、
「これはどうしたことだ?」
と驚きの声を発しました。
相手は狐でも狸でもなく人間でありました。みなが一斉に近づき火をかざして
見てみると六十歳ばかりの老僧でした。
詳しくいうと、寺の掃除など雑用を務める承仕法師で、寺の御堂に、お灯明を
もっていこうと手瓶というものに油をさして持ち、片手には素焼きの陶器に
火を入れて持っていたのでした。雨が盛んに降っていたので、濡れまいとして
頭に小さな麦藁で編んだ笠を被っていたために、濡れた麦藁の一本一本が
素焼きの陶器に入れた火に反射し光って銀の針のように見えたのでした。
ようやく事の真相がはっきりとしました。
「これを射殺したり斬り殺したりすればたいそう後悔したことであろう。
忠盛の振る舞いようは、まことにもって思慮深いことである。
弓矢をとる身、武士という者は、まことに殊勝なものである。かくありたいものじゃ」
と白河法皇はいたく感心され、忠盛はその功により、あれほどご寵愛であったと
評判の祗園女御を法皇から賜ったのでありました。
実はそのときすでに、女御の腹の中には白河法皇の子供がいたというのです。
これを知られた白河法皇は、
「生まれた子が女子ならば我が子にしよう。男子ならば忠盛の子として武士に育てよ」
と言われました。
女御は後者つまり男子を生みました。忠盛はこのことを法皇に奏上しようとその機会を
うかがっていたのですが、適当な機会がなく、伸び伸びになっていたところ、
あるとき法皇が熊野へ御幸になりました。紀伊国糸鹿坂というところに御輿を下ろし、
しばらく休憩していたところへ、薮に山芋の子が無数に生えていたのを忠盛が
袖にたくさん入れて、法皇の御前へ参上し、
いもが子ははう程にこそなりにけれ
(山のいもの子はつるがはうほどにたくさんなっています。
※妹(いも)すなわち、女御の生んだ子は這うほどに成長しましたよ)
と申したところ、白河法皇はすぐおわかりになり、
ただもりとりてやしなひにせよ
(ただその山のいもの子をたくさん取って、養いの糧にせよ ※忠盛が引き取って養子にせよ)
とおつけになりました。それ以後忠盛は男子を自分の子として育てました。
この男子は元気がよく、夜泣きが激しかったのですが、これを耳にした白河法皇は
よなきすとただもりたてよ末の代に
清くさかふることもこそあれ
(夜泣きをしても、忠盛よ、ただお守りをして養育してくれ。
後になって清く盛える事もきっとあるぞ)
と、一首の御製をお詠みになられて忠盛に下されました。忠盛がこの御歌から
清盛という名を付けたといいます。
清盛は十二歳で兵衛佐になり、十八歳で四位になり四位の兵衛佐となった
ことに対し、事の詳細をよく知らない人は、
「華族の家柄出身者ならばこのようなこともあろうが、なぜ武家出身のものが」
と不思議がったのですが、鳥羽上皇は事情を御存知だったので、
「清盛の血筋は、他の人には負けないのだよ」
と笑っておられたということです。

















