2012年 02月 06日
兵庫運河建設に功績のあった八尾善四郎の像 |
本日は兵庫運河建設に功績のあった八尾善四郎の銅像を写真紹介します。
八尾善四郎の像は兵庫運河をまたぐ高松橋の西詰めにあります。
撮影:2012-2-1

上の写真が八尾善四郎の銅像です。
所在地は長田区東尻池新町 マックスバリュ長田南店が目印となります。
八尾善四郎の銅像は大正8年(1919)に建てられました。
地図はこちら。
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E135.9.44.1N34.39.4.3&ZM=12
通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
この運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかったものである。
上記の新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。
上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。
八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。
この困難を極めた事業では最初、八尾善四郎に協力していたものも次々と去り、
最後には八尾善四郎ただ一人で行ったといわれている。
八尾善四郎はこの事業に私財のほとんどつぎ込み完成に到った。
この兵庫運河の建設は明治34年竣工の湊川付け替え工事、明治38年に竣工の
烏原貯水池(水源地)と共に神戸における明治期の3大土木事業と言われています。

上の写真は高松橋からマックスバリュ長田南を向き、八尾善四郎の像を見たものです。

上の写真は高松橋より川崎重工の工場や富士通テンを観た遠景です。
参考サイト
小冊子「近代土木遺産兵庫運河」(兵庫区役所)
兵庫運河の今昔物語(神戸市)
和田神社にある神田兵右衛門の顕彰碑(小生のBlog)
また和田神社のHPにも神田兵右衛門のことを詳しく解説されています。
http://www.kcc.zaq.ne.jp/wadamiya/index.htm
神戸文書館には詳細な記録資料(八尾文書)があります。
八尾善四郎の像は兵庫運河をまたぐ高松橋の西詰めにあります。
撮影:2012-2-1

上の写真が八尾善四郎の銅像です。
所在地は長田区東尻池新町 マックスバリュ長田南店が目印となります。
八尾善四郎の銅像は大正8年(1919)に建てられました。
地図はこちら。
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E135.9.44.1N34.39.4.3&ZM=12
通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
この運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかったものである。
上記の新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。
上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。
八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。
この困難を極めた事業では最初、八尾善四郎に協力していたものも次々と去り、
最後には八尾善四郎ただ一人で行ったといわれている。
八尾善四郎はこの事業に私財のほとんどつぎ込み完成に到った。
この兵庫運河の建設は明治34年竣工の湊川付け替え工事、明治38年に竣工の
烏原貯水池(水源地)と共に神戸における明治期の3大土木事業と言われています。

上の写真は高松橋からマックスバリュ長田南を向き、八尾善四郎の像を見たものです。

上の写真は高松橋より川崎重工の工場や富士通テンを観た遠景です。
参考サイト
小冊子「近代土木遺産兵庫運河」(兵庫区役所)
兵庫運河の今昔物語(神戸市)
和田神社にある神田兵右衛門の顕彰碑(小生のBlog)
また和田神社のHPにも神田兵右衛門のことを詳しく解説されています。
http://www.kcc.zaq.ne.jp/wadamiya/index.htm
神戸文書館には詳細な記録資料(八尾文書)があります。
by seiyo39
| 2012-02-06 11:15
| 神戸情報
|
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