NHKスペシャル 東京大空襲を視聴して |
放映された。
その内容を中心として写真紹介します。
まず、東京大空襲をWikipediaで調べてみました。
「東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により
行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、
特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は
大規模であった。
通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年(昭和20年)
3月10日に行われた空襲を指すことが多い。民間人にも大きな被害を与えた。」
Wikipedia(Bombing of Tokyo )へのリンク
上の写真は東京都慰霊堂に眠る3月10日の大空襲の犠牲者10万5千人の骨壷を
収容した部屋の紹介です。大きな骨壷は身元不明なものだそうです。
以前に私も東京都慰霊堂を訪問したことことがあり、Blogに写真をアップしていますので
リンクしておきます。
都立横綱町公園内 東京都慰霊堂
東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
3月10日は1999年に空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として「東京都平和の日」
に定められ、永遠に記憶に留める日となった。
上の写真は昭和19年(1944)11月24日 東京荏原地区の空襲で被害を受けた民家の
写真である。78人が死亡されたとのこと。
東京が初めて無差別の焼夷弾による空爆を受けた日である。
以降昭和20年5月末まで106回の空爆があった。
第1のターゲットは中島飛行機製作所であったとの解説もありました。
日本焼夷弾攻撃データ(Japan Incendiary attack data)で周到に
東京大空襲が計画実施された。 昭和18年(1943)10月に作製。
さらに、終戦までの空襲については昭和19年(1944)11月24日に作成の
作戦任務報告書(Tactical Mission Report)に書かれています。
記載例:
1945-1-9 東京空襲 ミッションNo. 18
1945-1-19 明石空襲 ミッションNo. 20
1945-1-27 東京空襲 ミッションNo. 22
1945-2-25 名古屋空襲 ミッションNo. 25
上の写真は今回NHKが入手した写真を撮った東方社(陸軍が正式に依頼して戦争の
写真を撮ってきた機関)の本社の建物である。
東方社によって撮られた写真はほとんどが戦後、焼却処分され現在は残っていないと
されていた。戦争犯罪の追及を免れるために焼かれたとの説明もありました。
東方社の写真部長木村伊兵衛氏の紹介もありました。
上の写真は東方社の写真をもとに発刊されていた雑誌「Front」
上の写真は昭和19年(1944)11月27日 空襲後の原宿駅付近の様子です。
上の写真は昭和19年(1944)12月3日空襲後の荻窪駅の周辺の様子です。
上の写真は昭和19年(1944)12月3日空襲後の杉並区高井戸第4小学校の様子。
上の写真は昭和20年(1945)1月28日空襲後の根津神社。
日本医科大学病院の空襲後の写真も放映された。
上の写真は昭和20年(1945)1月27日東方社の屋上から空襲後炎上する銀座
方面を撮った写真である。
上の写真は上記空襲で焼けた建物の消火作業(銀座4丁目付近)
254人の死者が出たとの解説がありました。
上の写真は東京大空襲で焼かれた地域を示した地図。
昭和20年(1945)3月10日の空襲では午前0時過ぎから約2.5時間東京の下町が
279機のB29と32万発の焼夷弾による空襲で一瞬にして10万人を超える(文献では
97,031人という資料もあり)貴重な命が奪われた。
大空襲の夜が明けた三月十日十二時の大本営発表によれば、
本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、
市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は
二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり。
現在までに判明せる戦果次の如し。
撃墜: 十五機
損害を与えたるもの:約五十機
空襲による甚大な人的、物的被害については、全く触れられていませんでした。
参考サイト
東京大空襲・戦災資料センター