平忠度を祀った史跡 |
史跡を紹介します。
まとめようとなったキッカケは2012年3月28日の神戸新聞朝刊で下記の腕塚神社
に関する紹介記事が掲載された為です。
薩摩守平忠度は平忠盛の六男。清盛の異母弟(平清盛の末の弟)。
武芸にも歌道にも優れた武将でした。妻は第18代熊野別当湛快(たんかい)の
娘で、湛増(たんぞう)の妹。平忠度は熊野生まれの熊野の育ち。
熊野川沿いの音川が生誕の地と伝えられています。
1.腕塚神社
場所:明石市天文町1寿永3年(1184)2月7日源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守平忠度は海岸沿いに西に
落ちて行った。源氏の侍岡部六弥太忠澄ははるかにこれを見て十余騎で追った。
忠度に付き添っていた源次ら4人は追ってに討たれ、明石の両馬川まできた時、忠澄に
追いつかれ2人は馬を並べての組討となった。忠度は忠澄を取り押さえ首を取ろうとした時
忠澄の郎党によって、右手を切り落とされた。忠度は最早これまでと念仏を唱え始める。
箙(えびら)に結び付けられた文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の
主(あるじ)ならまし 忠度」とあり初めて忠度であることが判った。
平忠度は平清盛の末弟で歌の分野では藤原俊成に師事した風流人であった。
年齢は41歳で忠度が馬を並べて戦った川をその後両馬川と呼ぶようになった。
つい最近まで山陽電車人丸駅の北側に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠と
なってしまっている。
上の記事の右腕を埋めた場所に腕塚神社が建てられたと伝わる。
詳細は両馬川旧跡と腕塚神社(小生のBlog)で紹介しています。
2.平忠度の胴塚(首塚)
住所:神戸市長田区野田町8丁目5
一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。
敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、
忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされて
しまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。
その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。
詳細は小生のBlog 平忠度の胴塚(首塚)でまとめています。
3.腕塚堂(平忠度塚)
住所:神戸市長田区駒ケ林4丁目5-8
ここでは、「一の谷の合戦で西門を守り土肥実平に破れた平忠度は駒ケ林を目指して
落ち延びようとしたがここで岡部六弥太忠澄の家臣に腕を切られ討たれた。」と
されている。
腕、腰、足の痛みがなおると人々から信仰されています。
詳細は小生のBlog 腕塚堂(平忠度塚) で紹介しています。
2011年11月28日に撮影した写真を追加しておきます。
平忠度の御廟所として位牌も祀られています。
ここも腕塚神社と同じように平忠度の切り落とされた腕を埋めたところと伝えられ
腕、腰、足の痛みがなおると人々に信仰されています。
4.忠度塚
住所:明石市天文町
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いで平家の将の薩摩守平忠度(たいらのただのり)は
源氏方の武蔵国の岡部六弥太忠澄に首を討ち取られた。
その亡骸を埋めたところと伝えられる。
詳細は小生のBlog 忠度塚 で紹介しています。