藍那の辻の道標と伝和泉式部の塔 |
端谷城址(満福寺)を散策しました。
本日は藍那駅の周辺の散策から藍那の辻の道標と伝和泉式部の塔を写真
紹介します。
藍那の辻の所在地は下記の地図を参照してください。
「北神戸 歴史の道を歩く」(野村貴郎著 神戸新聞総合出版センター 2002年) の
Page52からの引用です。

伝和泉式部の塔は宝篋印塔と表現されています。
神戸電鉄藍那駅などにあった現地の地図(下の写真)には和泉式部の墓として載って
います。

下の写真は伝和泉式部の塔です。
この伝えは明らかに誤伝であり「藍那の辻の宝篋印塔」と呼ぶのが適切かと思う。
宝篋印塔は特徴から南北朝時代の作と考えられます。
参考:妙法寺 宝篋印塔 の解説
そうは言っても何故和泉式部の塔と伝わっているのかが気になるので和泉式部のおいたち
などから疑問を探っていきたいと思う。
まず、Wikipediaから和泉式部の解説を見てみると、
和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。
越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
越前守・大江雅致(おうえのまさむね)と越中守・平保衡(たいらのやすひら)の娘の間に
生まれる。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい
(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。
和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に下る。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。
道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍(こしきぶのないし)
は母譲りの歌才を示した。
帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王
(977-1002)との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道(あつみち)(981-1007)親王の求愛を受けた。
親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。
敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。
長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた
藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明。
没年は和泉式部47歳以降であろうと推察できる。
「和泉式部日記」中で恋愛の日々を語っている。
恋の結末は二人の皇子の死で終わった…、とある。
晩年は尼となり東北院内の小御堂(藤原道長が法成寺の東北の一隅に、 和泉式部のために
建てた。新京極・誠心院はこの小御堂に端を発するという)で過ごしたとも伝えられる。
誠心院のHP
新京極の誠心院の初代の住職は和泉式部とも和泉式部誠心院専童法尼の碑あり。
天性の美貌と歌才に恵まれ、情熱的な一生を送り、恋愛歌人として有名である。
波乱の人生は熊野信仰を広めた熊野比丘尼(くまのびくに)によって各地に伝えられた。
熊野比丘尼とは、熊野三山に属した僧形の女性宗教者中世から近世にかけ、
地獄極楽の絵解きをしながら、熊野三所権現勧進のため諸国を歩いた尼僧。
小歌や俚謡をうたい物乞いをして歩いた。のちには、売色を業とする者もいた。
別名:歌比丘尼。勧進比丘尼。
140余の歌を残している。
御拾遺和歌集より一例を記しておきます。
刈藻かき臥猪の床のゐを安み さこそねざらめ斯らずもがな
黒髪のみだれも知らず打臥せば まづかきやりし人ぞ戀しき
晩年仏教に救いを求め浄土宗西山深草派総本山 京都 誓願寺にその足跡を
残しています。 詳細は誓願寺のHP。
謡曲 誓願寺には次のような記述があります。
「わらわがすみかも他所ならず。あの石塔こそすみかにてさむらへ。
不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓と こそ聞きつるに そもすみかとは不審なり」
和泉式部についていろいろと書いてきましたがこれらから今に残る宝篋印塔に
繋がる糸口が今ひとつ見えてこない。
あつサイトに、水の歩き巫女の足跡であろうと考えられる説を説かれていました。
彼女(歩き巫女)らは水源不足に悩む土地を訪ねて村人のために泉を発見し水路を教えた
ということです。
藍那、小河の両集落とも水不足に悩み歩き巫女たちの力を借りたこともあったであろうことは
想像がつきます。
歩き巫女とは特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うこと
によって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。
そのため、遊女の別名である白湯文字、旅女郎という呼称でも表現される。
鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼などが知られる。
結論として京都誓願寺に属する比丘尼(びくに)の遊行僧いわゆる歩き巫女と
藍那との関わりを示唆する記念碑のようなものと結論づけています。


上の写真は藍那の辻の道標です。
上部に仏像が彫られています。
右 あいな 左 みき と行き先が書かれています。大正8年(1919)の建立です。
左の側面には向井国三と記されています。
この辻を三草の戦いで勝った源義経が鷲尾熊王武久(のちに鷲尾三郎義久)の
先導のもとに一の谷の合戦のために通ったことを考えるとワクワクします。

最後に藍那の集落を大中寺から撮った写真をアップしておきます。