平清盛ゆかりの地 舞子の浜 |
舞子の浜はJR垂水駅から山陽電車の西舞子あたりの海岸線を指し
神戸市の中でも明石海峡大橋、淡路島を臨め景勝地として知られています。
昔は海岸線に沿って松林と白砂で観光名所としても有名でした。
上の写真は舞子六神社付近から撮った舞子の浜の風景です。
撮影は2008-6-12。
写真を撮った位置の概略位置を示す地図は下記のとおりです
中央の経緯度 北緯34度38分14.3秒 東経135度1分41.4秒
この位置へのリンク
画面中央で十字線が交叉している場所です
舞子六神社の情報(小生のBlog)
平家物語 巻4に高倉上皇の厳島神社からの還御があります。
ここ=山田の浦(=舞子の浜の舞子港)に高倉上皇が厳島神社からの
帰還の途中に寄港したの記述があります。(下記)
治承4年(1180年)3月29日、高倉上皇は船を飾り、厳島神社への参拝からの
還御の途についた。
4月5日、備前の国の児島の泊は空が晴れて、海ものどかになりました。
高倉上皇の船をはじめ、皆の船が出発しました。
雲の波、煙の波をかき分けて、その日は、播磨の国の山田の浦に到着しました。
山田の浦から、高倉上皇は輿に乗り、福原へ入りました。
4月6日は福原に逗留し、池中納言・平頼盛の山荘や荒田という場所まで、
福原のあちらこちらを見て回りました。
4月7日、福原を出発するので、平清盛の屋敷へ行き、褒賞を行いました。
父は五条大納言藤原邦綱、母は右大臣藤原公能の娘で厳島神社御幸に
供奉した平清盛の養子、丹波の守・清邦は正下の四位、
平清盛の孫・越前少将の平資盛は従下の四位と言われました。
その日は、寺井という場所に着きました。
高倉上皇は、還御の際は鳥羽殿には寄りませんでした。
都では、すぐに、平清盛の西八条の屋敷へ行きました。
また吾妻鏡に山田法華堂(神戸市垂水区)=舞子の浜の北側に納められたとの
記述があります。
平清盛の墓はどこにあるかの話題については下記の小生のBlogを参照してください。
http://seiyo39.exblog.jp/16318636/
平家物語 巻6 平清盛の死で下記の記述あり。
治承5年(1181年)2月4日、平清盛は悶絶し、ついに、はね狂いながら死にました。
2月7日、六波羅近くの愛宕寺にて荼毘に付され、骨は、左大臣・徳大寺実能の子の
円実法眼(能福寺住職)が首にかけ、摂津の国へ下り、
経の島(神戸市兵庫区築島という)に納められました。