端谷城(衣笠城) on 2012-4-2 |
端谷城(衣笠城)の所在地は神戸市西区櫨谷町寺谷です。
まず端谷城について2000年8月に寺谷里づくり協議会作製の案内板の説明を
引用させていただきます。
端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には
櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。
室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1467~77)などで活躍し、その功により
衣笠の姓を得たと伝えられています。
その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い
櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ヶ市城、城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと
考えられる城や砦を築いています。
戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力をのばし、やがて東播磨の覇者となった時、
端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
天正六年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影
は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、
三木城落城後の天正八年二月二十五日に落城し、廃城となりました。
今日に残る遺構は、この時のものです。
堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城砦を
築きあげた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、
残された遺構から読み取ることができます。
櫨谷を守り続けた端谷城は落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が
良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、
歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。
焼け瓦の出土から焼き討ちにより端谷城が落城したことが判る。

上の写真は三の丸に移転した満福寺の建物脇に置かれてあった鬼瓦です。

上の写真は同じく現地の説明板の写真で端谷城の全体を縦覧したものです。
上の写真をベースに神戸市教育委員会が説明を加えられていますので写真と
ともに引用掲載させていただきます。
三の丸

上の写真は端谷城三の丸に移転された満福寺の堂宇です。
満福寺の境内にも、2段の曲輪(くるわ:平坦に造成した陣地)がありました。
北辺には、土塁(どるい:敵の攻撃や侵入を防ぐ土盛り)が設置されています。
南側の斜面を下ると城主の居館跡かと推測される平坦地や大手口(城の入り口)
があります。これより一段さがった櫨谷川に面した平坦地には、
侍屋敷や蔵などがあったと推測されます。
堀切

上の写真の右手の窪んだ溝が堀切の跡です。
尾根上を掘削し、遮断した堀で、本丸背後の堀切とともに城の中核部への敵の侵入を
防ぐ重要な防御施設です。
二の丸側の斜面も削り込み、さらに急峻なものにし、武器を持った敵が前進出来ない
ようにしています。攻める敵方は、深い堀と二の丸の斜面だけが目前にあり、
二の丸で守備する城兵の数や行動が全く見えないようになっています。
二の丸東斜面の曲輪(くるわ)
適当な写真がないので写真は省略。
東側の斜面は、断崖絶壁で、敵が侵入するには困難な場所ですが、ここにも斜面を
削り出して小さな平坦面を築造しています。
東方の谷筋や城の背後に廻ろうとする敵の監視や、攻撃のために設置された曲輪
と考えられます。
西南の尾根の曲輪(西の壇)と同様に敵の侵入を防ぐための施設が設けられていたと
推定されます。
二の丸

上の写真が端谷城城址の二の丸付近でかなり広い平面の面積があったことを
偲ばせます。
幅約25m、長さ約65mでこの城で最も広い曲輪(くるわ:平坦に造成した陣地)です。
この曲輪からは、西南方面方向の尾根の曲輪や前面の堀を隔てて下段の曲輪へと
細い道でつながっており、後詰の城兵を各所に配置することができます。
また、各所の曲輪の状況が見通せる高所にあります。
二の丸の南、西、東斜面は削り込まれ急峻な斜面となっています。
西斜面には、細く小さく削り出した小さな曲輪(腰曲輪)が造られ、西南の尾根の曲輪
とともに西側の谷筋をあがってくる敵を双方より攻撃できるように工夫されています。
西南の尾根の曲輪
本丸より西南に伸びる尾根には、2段の平坦地を造り出した曲輪が配置され、
東側に面する二の丸斜面の曲輪とともに、この谷を囲むように防御しています。
この二つの尾根に挟まれた谷は深く細いため、ここをのぼり本丸を目指す敵方は、
一列になっての攻撃しかできず、左右の曲輪からの攻撃をうけることになります。
本丸

上の写真が本丸付近です。
この城の最高所(標高140m)にあたり、北辺には土塁(どるい:敵の攻撃や侵入を
防ぐ土盛り)があり、北側からの防御を固めています。
北西隅には物見台と思われる方形の土壇が2段に設置されています。
ここからは、衣笠氏が支配した櫨谷の谷入口まで見通すことができ、遠くは
淡路島を望むことができます。
城主はここから櫨谷の各所に築かれた城や砦から狼煙(のろし)などによって
異変をいち早く察知し、速やかに防御の体制を整えることができたものと
思われます。


上の2枚の写真は同じく現地の説明板にあった航空写真による説明で端谷城の地勢
及び端谷城を守る福谷城や城ケ谷城や櫨谷の様子がよく判ります。
関連Blog
三木城跡 on 2010-11-4
三木市の衣笠神社訪問記 on 2010-9-1

















