古代の神戸 その3 弥生時代 神戸市埋蔵文化財センターの展示から |
春の企画展「古代の神戸」が開催されています。
私は2012年4月26日(木)に神戸市埋蔵文化財センターを訪問し、写真を撮らせて
いただきました。
本日は「古代の神戸」その3回目ということで弥生時代をテーマに企画展での写真を
中心に話を進めていきます。
弥生時代は2400年前から1700年前の約700年間である。
最近は佐倉市の国立歴史民俗博物館が2003年頃から提唱されている説で
500年くらい古い年代から弥生時代が始るということも言われています。
ここでは下記のように前期、中期、後期の年代を規定します。
また縄文晩期を弥生時代に入れるという説もあります。
前期 2400年前~2200年前
中期 2200年前~2000年前
後期 2000年前~1700年前
弥生時代全般について吉野ケ里歴史公園のサイトが面白いのでリンクさせていただきます。
http://www.yoshinogari.jp/ym
上の写真は弥生土器を中心とした弥生時代の展示ショーケースです。
上の写真は弥生時代前期の土器(壷)で神戸市須磨区戎町遺跡から出土しました。
上の写真は西区の出会遺跡出土の石包丁です。弥生時代前期のものです。
弥生時代の後期になると石の道具は衰退して鉄器の道具が台頭してきます。
米作は弥生時代から始ったとされ、中国の雲南省付近から日本に伝播して
きました。海を渡って伝えられた稲作は日本列島を北上し沖縄、北海道を除く
日本各地に400年から700年かけて広まった。
従来の説では100年間で北上したという記載もある。
上の写真は小和田哲男監修「すぐわかる日本の歴史」東京美術(2000)のPage31
稲作が中国から日本に伝播した経路を説明したものです。
上の写真は須磨区の戎町遺跡の水田跡でちいさいもので5.5m、大きいものは9.3m
あるそうです。
上の写真は神戸市東灘区北青木遺跡から出土の弥生前期の土器です。
上の写真は弥生時代前期に水田などで使用されていた木製の農耕具です。
左上が広鍬、右上は狭鍬です。神戸市東灘区の本山遺跡からの出土。
上の写真は東灘区北青木遺跡から出土した弥生時代中期の土器の展示です。
その上の方の写真展示には方形周溝墓に埋葬された木棺墓4基と土器棺墓1基が
見つかっています。長さ1m、幅0.4mであることからムラの有力者の幼児や子供の
墓であろうと推定されています。
上の写真は西区の日輪寺から出土の弥生時代後期の土器です。
上の写真は西区新方遺跡の第12号人骨が発見された時の写真展示です。
明石川下流左岸に立地する新方遺跡では竪穴住居跡などの生活跡が見つかっています。
第12号人骨は埋葬時の姿勢を保っており、脚を2箇所で交差する他に類例のない方法で
埋葬されています。身長157cmで20-30歳の男性の人骨と考えられています。
6点(うち5点は右手指に装着)の鹿角製指輪も出土しました。
新方遺跡の周辺には吉田南遺跡、出合遺跡、玉津田中遺跡など弥生時代の遺跡が
存在しておりこの当時の明石川流域に500人前後の弥生人が暮らしていました。
神戸市埋蔵文化財センターの展示ではないのですが前述の玉津田中遺跡からは
青銅の剣先が突き刺さった人骨が出土しており、弥生時代の中期に戦いがあったことを
物語っています。
上の写真は神戸市西区新方遺跡の第12号人骨の再現模型の展示写真です。
上の写真は弥生時代には欠かせない銅鐸の鋳型に関する展示です。
展示の鋳型(上の写真の左側)は神戸市西区の西神ニュータウン内第65地点遺跡から
出土したもので凝灰岩砂岩という石材が使用されています。
写真の右側は桜ヶ丘4号銅鐸の模造品を製作する際につくられたもので土の鋳型です。
桜ヶ丘の銅鐸(小生のBlog)へのリンク
神戸の数少ない国宝の1つです。
Wikipediaによる銅鐸の解説を引用させていただきます。
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。当時の呼び方は不明。
中国で鐘を「鐸」と言うことから明治以降「銅鐸」と呼ばれるようになった。
横になった状態で出土することが多く、その姿が蛹に似ていることから、
江戸時代は「蛹(さなぎ)」と呼ばれた。
銅鐸は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器である。
これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。
主な出土数は以下の通り(平成13年3月末 文化庁調べ)
兵庫県 56点
島根県 54点
徳島県 42点
滋賀県 41点 和歌山県 41点
初期の銅鐸は20~50cmで聞く銅鐸と言われ制作年代から Ⅰ~Ⅲ式に分類されています。
Ⅰ式-----紀元前2世紀
Ⅱ式-----紀元前1世紀
Ⅲ式-----1世紀
内部に舌があり、鈕(ちゅう)と呼ばれる吊るしがあります。
2世紀になるとⅣ式と言われる高さ100cmを超える銅鐸もあり、見る銅鐸と言われます。
卑弥呼の邪馬台国の時代になるとすべての銅鐸は粉砕され以降出土することは
なくなります。近畿地方の政治勢力が祭りに使ったことが考えられます。
銅鐸について小生のBlogでもまとめていますので参照してきださい。(下記)
http://seiyo39.exblog.jp/16973730/
上の写真は中央区の雲井遺跡から出土の弥生時代中期のヤリガンナです。
弥生時代の中期から後期にかけて鉄器が大陸から渡来し道具や武器などに
使用された。
上の写真は潤和横尾(じゅんなよこお)遺跡1区の高地性集落の遺跡です。
弥生時代中期末から後期には西神ニュータウン内第65地点及び第50地点遺跡
青谷遺跡、城ケ谷遺跡、表山遺跡、頭高山遺跡など高地性集落が数多く存在します。