天武・持統天皇陵に関するNHKテレビ報道と訪問(2011-5-16)時の写真 |
NHKの放送は5月18日(金)の6時54分頃に放映されたものです。
内容の概要は以下のとおりです。
宮内庁が昭和34年と36年に行った発掘調査についての報告書をNHKが情報公開の
手続きで入手して調べてみたら墳墓が八角形であることを確定できる資料であった。
宮内庁は公開すべきであるとの意見である。
上の写真は斜面に沿って積まれた正方形の石です。
写真を撮るのを逃したが、角に置かれた石は八角形であることがはっきり判る
ものであった。下記アドレスで映像を見ることができます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120518/t10015201481000.html
上の写真は天武・持統天皇陵を空中から撮ったもので左手上に聖徳中学の校舎を
確認できます。
上の写真は天武・持統天皇陵が八角形であることが確認(証明)されたのは初めてである。
上の写真は考古学者として有名な河上邦彦氏のコメントで宮内庁はもっと早くに
公開してもらいたかったと述べられています。(学問の停滞につながる)
奈良県立橿原考古学研究所で長らく研究をされていました。
天武・持統天皇陵についてWikipediaでの解説を引用させていただきます。
天武・持統天皇陵の別名:野口王墓、檜隈大内陵
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の
八角墳である。
天皇陵であり、天武・持統合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。
日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)と持統天皇の
金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として
考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
しかし1235年(文暦2)に盗掘にあい大部分の副葬品が奪われた。その際天武天皇の
棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していた
という。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も
奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
参考:石室の詳細が記述された阿不畿乃山陵記(あおきのさんりょうき)の内容について
石室は馬脳(瑪瑙)、棺は乾漆であったと書かれている。
次に2011年5月16日に小生が天武・持統天皇陵を訪問した時の写真を紹介します。
上の2枚の写真は天武・持統天皇陵の正面の写真と
天武天皇、持統天皇 檜隈大内陵と書かれた石碑。
陵墓の築造年代は 687年(持統天皇元年)です。
天武天皇について概略記述しておきます。
第40代 天武天皇
生没年:推古天皇30年(622年)年?~ 朱鳥(しゅちょう)元年(686)
生年は日本書紀に記載なし
在位: 天武2年(673) ~ 朱鳥元年(686)
異名: 大海人皇子(おおあまのおうじ)、
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
皇后: 鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)
宮殿:飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)
前の天皇:弘文天皇 後の天皇:持統天皇
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては
両親を同じくする弟にあたる。
皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天武天皇が生きた時代の主な出来事などを下記に列記しておきます。
622年 聖徳太子が死去
630年 第1回遣唐使 894年に廃止
645年 大化の改新(蘇我氏の滅亡)
難波長柄豊崎宮へ遷都
646年 僧侶の道登が山城の宇治橋を造る
652年 班田収授法
660年 中大兄皇子漏刻(水時計)を造る
663年 白山江の戦い 唐軍が百済と日本連合軍に勝利
664年 西国に防人を置く
667年 近江大津京に遷都
670年 法隆寺が火災 建立は588年~596年
庚午年籍が採用される。
672年 壬申の乱
飛鳥御原宮に遷都
682年 八色の姓を制定
684年 銅銭、銀銭を使用 初めての国産の銅銭「和同開珎」は708年
689年 飛鳥御原令22巻を発令 (律令制度の基礎)
694年 藤原京に遷都
上の写真は明日香村が作製した天武・持統天皇陵現地の説明書きです。
読みにくいので引用転記させていただきます。
「壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で
次に即位し、天皇としてはじめて火葬された、持統天皇が合葬されている御陵
(檜隈大内陵)である。墳丘は現在東西約58m、南北径45m、高さ9mの円墳状
をなしている。鎌倉時代(1235年)に盗掘され、その際の記録である阿不畿乃山陵記
に墳丘、前室、墓室内の様子の記載がある。墳形は八角形で五段築成、周囲に
石段をめぐらすという。切石積の石室は2室からなり、天武天皇の夾紵棺と
持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている。」
英文での説明文もありましたので転記させていただきます。
「After his victory in the Jinshin War(672).Emperor Tenmu laid the foundation
for the Ritsuryo legal system.His wife Empress Jito succeeded him to the throne.
He was the first emperor to be cremated,and his remains were buried together
with his wife's in this tumulus,known as Hinokuma-ohuvhi-no-misasagi.
The mound is at present circular in shape,about 58m from east to west,
45m from north to south,and 9m in height.It was tunneled into and robbed
in 1235,and a document of the time titled Aoki no sanryo describes the burial
mound,outer chamber,and the interior of the burial chamber.
The mound at the time was described as eight-sided and built in five layers,
with stone steps around the periphery.The two stone chambers are constructed
with dressed stones,and contain the remains of Emperor Tenmu in a dry
lacquer casket,and of Empress Jito in a gilt-bronze ossuary.」
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