モルガン ユキ の墓 in 京都市 on 2012-5-29 |
墓参してきましたので写真紹介します。
モルガン・ユキさんの本名は、加藤ユキ(加藤雪)、芸妓名は「雪香」です。
モルガン・オユキとかモルガン・お雪と表記される場合もあります。
モルガン・ユキさんは明治14年(1881)11月7日(戸籍上)実際には8月7日に
父 加藤平助と母コトの四女(末っ子)として京都市で生まれました。
父親は明治3年までは京都市寺町六角下ルで刀剣商を営んでいたが明治3年(1870)
の帯刀禁止令で商売替えをした。その父も明治28年に亡くなる。
姉達は芸妓となっており、ユキも14歳で祇園に出た。
明治33年(1900)長女が祇園でお茶屋兼置屋を兼業する「加藤楼」を開業した。
ユキは胡弓を厳しく仕込まれ胡弓の名手であったという。
祇園の芸妓時代に大富豪のジョージ・デニソン・モルガン(本家、J.P.モルガンの甥)に
見初められて結婚(日本人の正式な国際結婚としてはおそらく第1号ではないか?)。
結婚したのは明治37年(1904)1月20日で1月23日に届出受付除籍。
この日(1月20日)は「玉の輿の日」となっています。
ジョージ・デニソン・モルガン氏とユキの初顔合わせは明治34年(1901)「尾野亭」での
ことであった。
当時ユキには京都帝国大学学生の川上俊作いう恋人がいました。しかし彼(川上)は
家族から芸妓と結婚することに反対されて、別の女と結婚してしまう。
モルガンの度重なるプロポーズを断っていたお雪さんも、とうとう、3年越しの熱心な求婚
に負けてか、あるいは、お金のために結婚したのか、ということになっています。
その身請金は大金で、当時のお金で4万円(現在のお金で1~4億円)だったそうです。
結婚後アメリカニューヨークで新婚生活をスタートさせるが、アメリカで人種差別からか?
冷遇されわずか半年の逗留の後、フランスに渡る。
明治38年(1905)3月にフランスでユキが体調を崩した為、モルガンとユキは一時日本に帰還
神戸市須磨区の外人住宅を購入し、母親加藤コトと一緒に暮らすこととなったが
明治39年(1906)11月にフランスに帰る。
ジョージ・デニソン・モルガン=George Dennison Morganとの婚姻中のモルガン・ユキの
日本への里帰りは上記の明治38年の他、明治41年(1908)と明治44年(1911)の
3度である。
大正4年(1915)7月5日に夫のジョージ・デニソン・モルガンがスペインのセビリアで
心臓麻痺で急死したためモルガン・ユキは彼の莫大な遺産を相続する。
その後もフランスで生活をしていたが昭和13年(1938)3月24日にマルセイユを出航し
日本に戻る。
戦中から戦後にかけてアメリカからの送金も止まり生活は困窮する。
多くの寄付金や協力金で終戦寺何も残っていなかった。
しかしビゲロー弁護士の注力で彼女1代限り送金されるようになり経済困窮の
危機からは回避されるようになる。
昭和38年(1963)5月18日に亡くなる。
モルガン・ユキの一生については下記サイトが詳しい(英文)
http://myvanwy.tripod.com/companies/ventfort/dancingwiththeczar.html
上の2枚の写真は京都市の東福寺の塔頭「同聚院」の墓苑に眠るモルガン・ユキさんの
五輪塔墓碑です。
正面には戒名:秋月院妙澄大姉と加藤家各霊位、ユキ・モルガンと書かれています。
また右側面には昭和33年(1958)10月17日、
左側面には施主のモルガン・ユキさんの養女 加藤ナミ江さんの銘が刻まれています。
上の写真は墓苑のある東福寺同聚院の遠景です。
同聚院は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で五大明王のうち不動明王坐像(重文)が
祀られています。五大堂は寛弘3年(1006)の建立だそうです。
平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した土地でもあります。
不動明王坐像の作者は仏師・定朝の父 康尚(こうしょう)です。
東福寺の紹介(小生のBlog)
上の写真は衣笠墓苑に分骨されたモルガン ユキさんのお墓です。
衣笠墓苑はカルメル会修道院のさらに奥にあります。
ユキ モルガンの名前とともに
生年月日の1881年11月7日と1904年のジョージ・デニソン・モルガンとの結婚
1963年5月18日に帰天と刻まれています。
宗教法人跣足カルメル修道会修道院 (京都カルメル会)の基本情報
住所:京都市北区大北山鏡石町1-2 TEL:075-462-6764
もし訪問される場合上記情報を参考にしてください。
下記サイトも参考にさせていただきました。
http://kyotoyukimaru.sblo.jp/article/53156739.html