敦賀散策記 その2 西蓮寺と敦賀城三の丸跡 |
撮影:2011-9-28
西蓮寺の基本情報
住所:福井県敦賀市三島町1丁目3−6
TEL:0770-23-8517
宗派:浄土宗
若越八十八ヶ所 83番札所
西蓮寺は西隆寺として天正14年(1586)に開山、当時この場所は新田と呼ばれていた。
昭和25年、西隆寺と誓蓮院が合併して、誓蓮寺となる。
上の写真は西蓮寺の本堂?です。
上の写真は若越八十八ヶ所 83番札所の板碑。
上の写真は敦賀城三の丸跡の碑です。
敦賀城の歴史を簡単に紹介します。
(敦賀西小学校にある敦賀みなとライオンズクラブ作成の説明板より引用)
天正11年(1583)蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で
初めての平城を築いたが、同17年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継
と交代した。
吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。
三層の天守閣をもつこの城は、現在の結城町と三島町1丁目にまたがるものであった。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は、敗れて自刃した。
元和元年(1615)の一国一城令によって、城は破却された。
寛永元年(1624)小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同11年には酒井忠勝が
小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。
そのため旧敦賀城の中心部に、藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)、町の支配や
警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、
目付け1名、町奉行2名、代官2名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務に
あたった。
明治4年(1871)廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域と
する敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。
同6年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。
同9年8月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県
に属した。
同14年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが 県庁が敦賀に戻ることは
なかった。
その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局、
明治42年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して、現在の敦賀西小学校に
引き継がれ、今に至っている。
敦賀城の遺構はほとんど残っていないが来迎寺には移築されたた中門が残っている。
大谷吉継の時代には3層の天守閣が造営されていたそうである。