敦賀散策記シリーズ その4 大谷吉継ゆかりの来迎寺 |
これまでのシリーズへのリンク
敦賀散策記 その1 お砂持ち神事の銅像 in 氣比神宮前
敦賀散策記 その2 西蓮寺と敦賀城三の丸跡
敦賀散策記 その3 八幡神社と郷土博物館
来迎寺(らいこうじ)の基本情報
住所:福井県敦賀市松島町2丁目5−32
TEL:0770-22-0654
大谷吉継ゆかりの寺として、また、幕末期に水戸藩 天狗党の烈士が大量に処刑された
場所としても有名なお寺です。
上の写真は来迎寺の本堂伽藍。
大谷吉継が関ヶ原の合戦に赴く際に寺に預けたという逸話が残る県指定文化財の
腰高障子があることで有名です。実物の写真は撮れず残念。
尊王攘夷派の挙兵事件として有名な天狗党の乱が起きたのは1864年3月27日
藤田小四郎ら約60人(のちに150人に)が筑波山で挙兵したものです。
下記は天狗党の乱以降の天狗党の動きです。
1864年
6月-7月には1,000人にふくれあがった天狗党軍は 諸生党、諸藩連合軍と
筑波山で再び衝突
8月には武田耕雲斎らが合流し3,000人までふくれあがる
8月-10月 那珂湊に転戦し1万3,000人の幕府軍と戦闘 天狗党の多くは投降
11月1日 一橋慶喜を頼り西に上る 約1,000人の兵力
12月20日 天狗党討伐の総督が一橋慶喜であることを知り投降 (越前藩新保で)
翼年1865年になり来迎寺が処刑地と決められ、武田耕雲斎、山国兵部、
藤田小四郎ら幹部25人が斬首となった。順次処刑が進められ2月23日には
累計353人が処刑。流刑者は130人となった
桜田門外の変、坂下門外の変を起こした水戸の尊王攘夷派は完全に根絶された。
上の写真は敦賀城から移築された中門。
上の写真は境内の鐘楼。
慶長5年(1600)7月徳川家康が会津に出兵に参陣するために敦賀を離れた大谷吉継は
ひとまず垂井に着陣しました。このとき佐和山城にいた石田三成から家康妥当を
打ち明けられ、三成の挙兵を断念させようとするが石田三成の意思は固く、結局
西軍として関が原に参陣しました。
関が原では山中村の藤川台に陣を置いて東軍に奇襲に備えましたが小早川秀秋の
寝返りにあい自害しました。西軍で唯一切腹した人物でもある。
下の写真は関が原にある大谷吉継の墓の写真です。