兵庫城跡現地説明会 on 2012-8-4 |
今回の発掘調査は兵庫津遺跡の第57次調査の成果報告の現地説明会でもある。
炎天下ではあったが熱心なファンが約700人詰め掛けた。
兵庫津遺跡の第57次調査の所在地:
神戸市兵庫区中之島2丁目 現中央卸売市場本場西側 旧中央卸売市場本場跡地
江戸時代の前の時代、池田恒興が花隈上城の用材を解体して兵庫城を築いた。(1580年)
池田氏が岐阜城に移ると豊臣秀次が尼崎と兵庫津を統治した。
江戸時代に入り兵庫津は尼崎藩により支配された。その城主は元和3年(1617)に尼崎城に
入った戸田氏に始まり、青山氏、松平氏と続き、明和6年(1769)に幕府領に編入されるまで
約150年に及ぶ。
尼崎藩は兵庫城跡に陣屋を置き、兵庫奉行を派遣して支配を行っていた。
1769年、兵庫津から幕府領に編入されると、大坂町奉行所の支配を受けることになり、
勤番所には大坂町奉行所から与力・同心が派遣され、常駐した。

上の写真は当日、配布された資料から追記したものです。
元禄絵図からピックアップされたもので、今回現地説明会の対象であるF区とI区を
表記しています。
F区の説明は川上氏、I区の説明は佐藤氏が担当された。


上の2枚の写真はF区の発掘現場の写真です。
今回の発掘は、ボーリング調査の結果鉛、フッ素などの有害物質が検出されそれらを
除去しないと進出が予定されているイオンの建設工事にも着手できないこともあり
急遽発掘調査されたとの説明がありました。
戦国時代末期(1580年)に築かれた兵庫城の堀の石垣の遺構が確認されたのは
初めてのことである。
勤番所時代の石垣は平成16年の第35次調査で、城跡の北西隅が調査され
石垣が確認されています。
堀の幅が14.6mであったこと、馬出の遺構が確認されたこと。
五輪塔、宝篋印塔、墓石などの転用石が多く使用された野面積(のづらづみ)の石垣
が確認されています。石垣の裏の裏込め石も確認されています。
転用石の中に文亀4年(1504)の銘が入ったものが確認された。

上の写真は堀や町屋などから発掘された陶器類、瓦、下駄、櫛、漆器鏡の展示。
陶器類は伊万里系の波佐見焼が1番多く出土した(時期は18世紀中頃)。
江戸時代の町屋で使用されていたものも多く出土されたようです。

上の写真はI区の発掘現場で石垣と町屋跡の説明をしている神戸市教育委員会
学芸員の佐藤氏。

上の写真も同じくI区の発掘現場(全体が判る)。
城内側の石垣、城外側の石垣。堀の幅は18m(10間)。

上の写真は今回の現場説明の場所ではないが発掘現場K区の位置を示したものです。
石垣が確認されており、堀の幅が9mということが確認されています。
兵庫城関連のBlog(小生のBlogより)
兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード
このBlogの中に説明板の絵で勤番所時代の絵があります。
また、兵庫勤番所時代(1769-1868)の勤番所の建物図面は
神戸市立中央図書館の貴重資料デジタルアーカイブに書かれています。
(南側に門があったようです)
説明板での兵庫城の解説
「天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は、現在中央市場が建つ中之島・切戸町である。
東西、南北ともに140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されて
います。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府 領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。」
兵庫城関連年表(現地説明会で配布された資料より)
天正8年(1580) 池田恒興が築城。荒木村重の花熊城を解体し、その用材を用いた
との記録がある(『花熊落城記』1732年)。
天正11年(1583) 池田恒興、美濃へ転封。兵庫・尼崎が三好(豊臣)秀次に与えられる。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の直轄領となる。片桐且元が代官となり、「片桐陣屋」と呼ばれる。
慶長元年(1596) 慶長伏見地震。兵庫津も被害を受ける。
元和3年(1617) 尼崎藩領となる。「兵庫陣屋」が置かれ、奉行が駐在
元禄9年(1696) 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』が描かれる。「御屋敷」と表現される。
明和6年(1769) 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
このころ、堀が埋められ町屋となる。
文久2年(1862) 『兵庫津之圖』が描かれる。「御番所」の周りも町屋となっている。
明治元年(1868) 兵庫県庁が置かれる。4ヶ月で移転する。
明治7年(1874) 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。
花隈城跡と天守跡
兵庫津の西の玄関口柳原惣門跡と東の玄関口湊口惣門跡
神戸ぶらり探訪(平清盛と高田屋嘉兵衛ゆかりの地 兵庫区南部地区)への参加
平成23年度神戸市埋蔵文化財センター秋季企画展 江戸時代の兵庫津を見学して
城跡関連のBlog(小生のBlog)
滝山城 on 2012-6-4
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