兵庫県 小野散策記 その1 来迎寺 |
2012年8月5日に歴史フォーラムがあり小野市を訪問した時に散策しましたので
シリーズで記述していきます。第1回は来迎寺についてです。
浄土寺は以前に訪問しているので、浄土寺訪問記にリンクしておきます。
小野市の浄土寺訪問記 on 2010-11-30
来迎寺の基本情報
住所:小野市市場町1185 TEL:0794-62-2070
宗派:浄土宗西山禅林寺派 山号:引接山
上の写真は境内の遠景です。当日(2012-8-5)は近隣の自治会の皆様が総出で
お盆の施餓鬼会を前に境内の清掃に汗を流されていました。
来迎寺は畝川山萬勝寺、瑞聖山雲光寺の729年創建(By 行基)には及ばないものの
重源創建浄土寺の1192年の創建とほぼ同時代の建久8年(1197)重源上人の弟子
善阿により創建された浄土宗の古刹である。
上の2枚の写真は山門とその軒の軒丸瓦と平瓦である。
山門には山号の引接山の扁額が掲げられています。
山門の名前は通達善趣門とつけられています。もう1つ立派な門があります(下の写真)
ので通達善趣門はそちらの名前かも知れません?
門の飾りもすごく立派です(上の写真)
現在境内では本堂?の建設工事が進められていました。
来迎寺の由緒について改めて記載します。
東大寺の焼き討ちに関わった平重衡の家来下司次郎とその妹の息子で重源上人の
弟子となった善阿が来迎寺の創建に深く関係しています。
下司次郎は小野市立市場小学校の南にかつて下司館と呼ばれる館を構えるこの地域
の土豪でした。下司次郎は東大寺(南都)焼き討ちを行った実行犯と伝えられています。
下司次郎は南都焼き討ちのとき、平重衡の命を受け、南都に火をかけた人物で、
伝説ではその後仏罰をうけて、本人とその家族も皆熱病に罹って亡くなったといわれ
ています。唯一生き残った妹は、南都焼き討ちで亡くなった人を供養するため、
息子を重源上人の弟子にしました。この弟子が善阿です。
この善阿により建久8年(1197)に創建されました。
上の写真は完全な形を留めていませんが宝篋印塔があります。
鎌倉時代の様式?を留める貴重なものだと思います。
神戸市西区の如意寺の宝篋印塔と形式が似ている。
境内に隣接する墓地にも宝篋印塔がありましたが江戸時代のものでした。
上の2枚の写真は境内の88箇所巡りの石仏。
上の写真は門前の神社の祠。
上の写真は播州音頭の記念碑。
以下現地の説明書きより引用。
播州音頭は明治時代のはじめ頃仏を供養する踊りの囃子歌として、地元の千鶴、
流光、別品の3名のほか一門が吉川音頭をもとに歌詞、曲、節調を改良したのが
始まりと伝えられていてます。以後この音頭は夏の盆踊り唄として親しまれています。
上の写真は忠魂碑。
境内には西南戦争、日清戦争、日露戦争の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑があります。
戦時中には神戸市内の小学生が集団疎開した話も聞いております。
また焼山古墳群の発掘調査(昭和33年頃)で兵庫県立考古博物館の石野館長が
寝泊りされたのもこの来迎寺であると聞き及んでいます。