兵庫県 小野散策記 その2 住吉神社 |
訪問日:2012-8-5
以前の訪問記
兵庫県 小野散策記 その1 来迎寺
浄土寺は以前に訪問しているので、浄土寺訪問記にリンクしておきます。
小野市の浄土寺訪問記 on 2010-11-30
住吉神社(小野市垂井町)の基本情報
住所:兵庫県小野市垂井町908 TEL:0794-62-2212
御祭神:住吉三神=(底筒男命(そこづつのおのみこと)、中筒男命(なかづつのおのみこと)、
表筒男命(うわづつのおのみこと))
由緒:(現地の説明板より要約)
当神社は創建年代は不明ですが、人皇10代の時とも養老6年(722)ともいわれています。
古書類は兵火のため焼失してはっきりしていない。
もと河内山田に鎮座していましたが、夢想によって市場村喜多島に奉遷し、後に現在の地に
奉遷することになり一名川内大明神ともいわれています。延喜式神名帳に所載の神社で
あって元和元年(1615)小笠原忠政の社領を寄せられ、慶安以降(1648~)徳川将軍代々
の社領朱印地として拾石を賜りました。その後、小野領主一柳家の氏神として厚く当社を
崇敬し、燈籠・鳥居など多くの寄付を賜り、それらは今尚現存しています。又地方の大社
として一般の人々の崇敬も厚く、明治4年8月小野県社に、明治45年(1912)に指定神社
になり、昭和17年(1942)6月には県社に昇格いたしました。現代の本殿は宝暦年間に
再建され、続いて神門、拝殿、その他の建物も再建され、その後、幾多の大改修を経て
現在に至っています。長い参道の奥の木立の中に鎮座しています当住吉神社は、
華麗な彫刻と自然との調和のとれた霊験あらたかな由緒正しい御社であります。
境内には稲荷神社をはじめ、猿田彦神社、袚戸社、磯御前社、豊磐間戸神社、
櫛磐間戸神社などの小宮があります。
創建年代は不明であるが延長5年(927)に延喜式が制定され神名帳に住吉神社
の名前が記載されているので住吉神社(垂井町)の創建は927年より古い。
上の写真は案内板の住吉神社境内の配置図です。
廃仏毀釈の影響か?洞林寺が廃寺となったのは残念である。
上の写真は神門付近です。とにかく立派です。
上の写真は櫛磐間戸神社及び豊磐間戸神社社殿内の脇侍像(右大臣&左大臣)です。
御祭神の豊磐間戸命・櫛磐間戸命については、門を守る神様として知られています。
また、太玉命の御子であります。
延喜式の「祈年祭」の祝詞の中には豊磐間戸命・櫛磐間戸命が登場します。
「御門の御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、櫛磐間門命・豊磐間門命と御名
をば白して、辞竟へ奉らば、四方の御門にゆつ磐村の如く塞がり坐して、朝には
御門を開き奉り、夕べには御門を閉て奉りて、疎ぶる物のしたより往かば、下を守り、
上より往かば、上を守り、夜の守り・日の守りに守り奉るが故に、皇御孫の命の
うづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ。」
上記により、この御祭神は、天照大神とその子孫が住む宮殿の門を守衛する神で
あることが判ります。
上の写真は神門の軒の軒丸瓦と軒平瓦です。上方の鬼瓦も立派です。
上の写真は神門をくぐったあと、正面に拝殿を観た遠景です。
上の写真は絵馬堂内の絵馬で攘夷の図が描かれています。
刀を抜いた侍が異国の人たちに斬りかかっている絵です。
説明書きがありましたので引用させていただきます。
「小野市垂井の住吉神社の絵馬。外国人に切りつける武士の姿を描く。地元では
慶応4年(1868)の神戸事件とされていたが、裏面に奉納嘉永3年(1850)□月
の墨書があったともいう。弘化(1844から1848)以来、開国を求める外国船が
しばしば日本を訪れたが、幕府は鎖国政策を守った。朝廷もその方針に従い、
嘉永3年(1850)4月、外国船来航の憂いを除くよう、7社7寺に祈祷を命じている。
詳細は不明だが、こうした攘夷の雰囲気を反映した絵馬かとみられる。」
その他にも立派な絵馬が奉納されていましたので写真掲載します。(下の3枚)
上の写真は境内社の猿田彦神社。
上の写真は住吉神社本殿。
上の写真は大和宮。
上の写真は住吉神社本殿、幣殿、拝殿の建物の遠景。
上の写真は手水舎近くのムクロジの大木。
神門近くの黒鉄黐(クロガネモチ)は幹の根元が虫に食われて痛々しい姿であった。