兵庫県 小野散策記 その4 小野藩陣屋跡(小野市西本町) |
訪問日:2012-8-5
以前の訪問記
兵庫県 小野散策記 その1 来迎寺
兵庫県 小野散策記 その2 住吉神社
兵庫県 小野散策記 その3 神明神社(垂井城跡)
浄土寺は以前に訪問しているので、浄土寺訪問記にリンクしておきます。
小野市の浄土寺訪問記 on 2010-11-30
小野小学校正門脇に「一柳家陣屋遺跡」の石碑と説明板が設置されています。
まず、説明書きより引用させていただきます。
小野藩陣屋跡(小野市西本町)
1636(寛永13)年、一柳直家は石高1万石で、小野市の主要部と加東郡家原の30ケ村を
領し小野藩を創立しました。当初、陣屋は旧敷地村に置かれていましたが、1653(承応2)年
2代目藩主・直次は御用商人三宅清昌に請け負わせ今の要害地に新しく陣屋を
構築しました。
陣屋内は主な施設には政務を行う「公廨庁」、藩主が居住する「御殿」、裁判・訴訟問題などを
受け持つ「評定所」、藩士の子弟の教育にあたった「藩校」(帰生館)、藩士みずからの武芸
などの訓練を行った「演武場」などがありました。その陣屋内は、土塀によって仕切られ、
その要所に番所が置かれました。陣屋の北側には、上級藩士宅 更に大手広小路から
以北は中級・下級藩士宅が建ち並びました。明治4年の廃藩までの218年間、
直次から十代に渡る一柳家の藩政が行われました。
小野藩陣屋跡(小野市西本町)の石碑と説明板の設置場所:
小野市西本町477 小野小学校正門脇

上の写真は堀の形跡が残っている中池方面を撮ったものです。
(好古館から神鉄小野駅に通ずる陸橋より撮影)

上の写真は「一柳家陣屋遺跡」と書かれた碑と説明板の全体遠景。

上の写真は小野陣屋跡の主な施設を解説した地図です。
小野小学校と県立小野高校の敷地とその周辺が陣屋の跡であったようです。
詳細に見て歩くと面白そうなところだと思っています。
歴代藩主は下記のとおりです。(By Wikipedia)
初代 直家(なおいえ)〔従五位下、美作守〕 伊予国西条藩の一柳直盛の次男
2代 直次(なおつぐ)〔従五位下、土佐守〕遺領相続により1万石
3代 末礼(すえひろ)〔従五位下、土佐守 御側衆〕
4代 末昆(すえひで)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
5代 末栄(すえなが)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
6代 末英(すえふさ)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
7代 末昭(すえあきら)〔従五位下、対馬守〕
8代 末周(すえちか)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
9代 末延(すえのぶ)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
10代 末彦(すえよし)〔従五位下、土佐守〕
11代 末徳(すえのり)〔従五位下、対馬守〕
小野藩のほとんどの藩主は江戸の祥雲寺が墓所/渋谷広尾
小野藩一柳家菩提寺の光明寺(9代末延公、10代末彦公の藩主のみ)
Wikipediaより一柳家の解説を引用させていただきます。
寛永13年(1636年)一柳直盛は伊予国西条藩6万8千石を与えられ、任地に赴く途中、
大坂で没した。遺領のうち西条藩3万石を長男直重が継ぎ、次男直家は既に領していた
播磨国小野5千石の所領に伊予国宇摩郡・周敷郡内の2万3千石を分与され
川之江藩を立藩した。当初は宇摩郡河上に居所を構えた。
また、加東郡の領地には王子村敷地に代官所を設置した。寛永14年(1637年)
加東郡の代官所を陣屋とし、藩主以下家臣が移住しここに実質的に小野藩の成立をみた。
また、末弟の直頼は伊予国小松藩1万石を分与されている。
寛永19年(1642年)直家は嗣子無く没し、丹波国園部藩主小出吉親の2男直次を直重の
女婿として迎え嗣子として幕府に願い出た。しかし当時は末期養子が認められず、
伊予領2万3千石は没収された。その上で改めて遺領相続という形で加東郡に1万石を
与えられた。
3代末礼は駿河加番を延宝6年(1678年)・元禄3年(1690年)の2度務め、
元禄5年(1692年)には大番頭となり、元禄16年(1703年)には5代将軍徳川綱吉の
御側衆となった。
5代末栄の代に藩財政が悪化し、質素倹約を主とした財政再建を行い藩中興の祖となった。
9代末延の天保4年(1833年)には大規模な百姓一揆である「加古川筋一揆」が起こった。
天保7年(1836年)には大国隆正を招聘し藩校「帰正館」を開校した。
末延の嫡子で10代藩主となった末彦は生涯独身を通したため、丹波国綾部藩主
九鬼隆都の5男を養子に迎え11代藩主末徳とした。
歴代藩主のうち、3~6、8・9代の各藩主は駿河加番となっている
(7代末昭は早世のため在番なし)。なお、陣屋南西に位置した竹門付近に僅かであるが、
土塀跡が現存している。
明治4年(1871年)廃藩置県により小野県となった。のち、姫路県・飾磨県を経て
兵庫県に編入された。
明治17年(1884年)一柳家は子爵となり華族に列した。なお、最後の藩主で子爵となった
末徳の3女・満喜子は建築家で近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻と
なっている。
一柳直盛以前の一柳家であるが、伊予の河野氏の出身と伝えられています。
大永年間(1521-1527)、河野宣高は家運が衰えてため、縁を頼って美濃の
土岐頼芸に仕え、美濃国西野村に領地を賜ります。この時姓を一柳に改めたと
言われています。
2代目の直高は仕官することなく過ごします。3代目の一柳直末は永禄11年(1568)
23歳で秀吉に仕え各地を転戦、三木合戦にも参加し東条の城の破却を命じられて
います。天正18年(1590)には美濃国軽見城で5万石を領するまでになりますが
同年の小田原城攻めの山中城の合戦で戦死。弟の一柳直盛が遺領を引き継ぎ
尾張の黒田城で3万石を領します。
一柳直盛は関が原の戦いで東軍につき木曽川の先陣争いや岐阜城攻め、
長松城の守備などの活躍により伊勢神戸5万石を領し、その後2度の大坂の陣
にも参加します。寛永13年(1636)には1万8600石の加増を受けて伊予西条に
転封になりますがこのうち1万石は播州加東郡の地があてられました。
この時、上意により播州加東郡の5,000石が次男直家に分領されます。
これが小野藩の創設となります。

















