東寺(教王護国寺) on 2012-9-5 |
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある全ての真言宗寺院の総本山、
根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある寺院。
「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる
ユネスコの世界遺産には平成6年(1994)12月17日に登録された。
東寺の基本情報
住所:京都市南区九条町1番地
tel:075-691-3325 宗派:真言宗 山号:八幡山
本尊:薬師如来
札所等:
真言宗十八本山第9番
西国愛染十七霊場第8番
洛陽三十三所観音霊場第23番
京都十三仏霊場第12番
都七福神(毘沙門天)
神仏霊場巡拝の道 第84番
公式HP
上の写真は南大門です。訪問そや時間帯が朝6時を過ぎたころのので3人の
僧が朝のお勤めをされていました。
建物は重要文化財に登録されています。
明治28年(1895)、三十三間堂の西門を移築したものだそうです。
上の写真は八島社殿での僧のお勤め。
御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)
八島社というのは我が国を大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)ということから
起った社号である。東寺が弘法大師により真言密教の道場となった弘仁14年(823)
より以前に鎮座されていたと伝わる。弘法大師も地主神として崇められた。
上の写真は国宝の金堂(本堂)。慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建されました。
内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が
安置されている。
上の写真は勅使門?です。
上の写真は講堂(重要文化財)です。
東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、
天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。
当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の
延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。
単層入母屋造で純和様である
上の写真は御影堂の南にある宝篋印塔や万病ぬぐい、天降石(撫で石)などです。
地元の方々が毎朝掃除をされているようです。
上の写真は御影堂です。
「生身供」が行われていたのか?たくさんの人が御影堂でお祈りをされていました。
上の写真は食堂(じきどう)です。
上の写真は北大門です。
上の写真は東寺の塔頭 観智院の門です。
上の写真は観智院の東側に佇む不動明王の石像です。
上の写真は東寺のシンボル五重塔です。
高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。
上の写真は宝蔵のまわりの池の蓮池にいた青サギです。
Wikipediaより東寺の歴史(由緒)について引用させていただきます。
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)
という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の
左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という
意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後
まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)
となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜には
その名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの
796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりと
ともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年 - 1252年)
であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。
また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を
捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)
などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているが
ごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の
西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日
には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の
援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、
豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・
講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の
規模は平安時代のままである。