住吉宮町遺跡 住吉東古墳 ー古墳の築造とまつりを中心としてー |
こちらにあるパネルに「住吉東古墳の古墳の築造とまつり」があります。
この中に喪屋(もや)という建物が初めて確認されたことが大きなトピックス
ですのでそのことを中心に記事を書きたいと思います。
まず、喪屋という言葉の意味ですがコトバンクでは次のように解説されています。
遺体とともにその近親者が忌籠(いみごもり)する建物。上代の荒城(あらき),
殯宮(もがりのみや)もこの一種。
母屋の火が死のけがれにおかされるのを防ぐため別に建てる。
さっそくパネルの絵と解説を紹介します。
上の写真は設計図をもとにして古墳の大きさに合わせて現地で線を引き、
溝を作ります。(ここで土地の神をまつる地鎮を行ったようです)
その後、溝の内側に土を盛り、その上に喪屋(もや)という建物を建てます。
喪屋の中では死者を弔う儀式が行われます。
その後、遺体を埋葬して、喪屋を取り壊し、さらに土を盛り、溝を掘って埴輪を
並べ、石列を造って古墳を完成します。
646年の大化の薄葬令、701年の薄葬令から、仏教の普及が進み、さらに
天皇みずからが火葬されて手本を示すと、日本では火葬が主となり、
喪屋(もや)、殯(もがり)の風習もしだいにすたれていった。
殯(もがり)についてWikipediaより引用させていただきます。
殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの
かなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、
かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認
することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。
その棺を安置する場所をも指すことがある。
殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では
「あらきのみや」)という。
住吉東古墳と住吉宮町遺跡について現地の説明板などから概説したいと思います。
(1)住吉南町遺跡について(Wikipedia)
「住吉宮町遺跡(すみよしみやまちいせき)とはJR住吉駅周辺、兵庫県神戸市東灘区
住吉宮町3・4・5・6・7丁目、住吉本町1・2丁目、住吉東町4・5丁目にわたって所在する
東西750メートル、南北650メートルの弥生時代〜近世の複合遺跡である。
包蔵地面積22万m²。住吉川右岸の完新世に形成された標高20メートル前後の
扇状地に立地する。
弥生時代中期・末期の竪穴住居や前方後円墳坊ヶ塚古墳と帆立貝型式前方後円墳
住吉東古墳を頂点とした古墳時代後期の古墳群や奈良時代・平安時代・中世の集落
などが発見されている。
また、幾重もの洪水砂層や洪水時の流路・土石流など洪水の形跡が確認されている。
この地域は早くから市街化が進んだため、その存在は全く知られていなかった。
言い方を変えればあまりにも古くから人の居住していたため遺跡として意識されて
いなかったのだが、1985年(昭和60年)に住吉宮町7丁目でのマンション建設の
際に遺物が出土しこれが明らかとなった。その後もマンション建設や駅舎ビルの建設、
再開発に伴い調査が繰り返されている。」
上の写真も同じくWikipediaからのコピーで住吉宮町遺跡の過去の発掘された
場所が示されています。数字は調査の次数です。
(2)住吉東古墳
はには広場の南側のシーア駐車場では帆立貝のような形をした古墳が発見され
住吉東古墳と命名されました。
昭和63年度の発掘調査の結果、全長約24mの帆立貝式古墳であることがわかりました。
墳丘の周囲に円筒埴輪が多数出土しました。立て並べられていたと考えられます。
出土品は馬形埴輪1点、家形埴輪1点・人物埴輪3点・円筒埴輪約160点・
朝顔形埴輪約10点です。
馬形埴輪は、鞍や馬具の表現から乗馬用の馬を表していると考えられます。
関連Blog
神戸市埋蔵文化財センター内の馬形埴輪
神戸市埋蔵文化財センター
古代の神戸 その4 古墳時代(完) 神戸市埋蔵文化財センターの展示から
終わりにJR住吉駅周辺の遺跡についてパネル展示より引用させていただきます。