2012年 10月 30日
中部幾次郎氏の銅像 in 明石公園 on 2012-10-26 |
明石公園の大手門入口に旧太洋漁業(現マルハニチロホールディングス)の創始者
中部幾次郎(なかべいくじろう)氏の銅像が建っています。
2012年10月26日(金)に写真を撮りましたので紹介します。
銅像は昭和3年(1928)11月に明石市により建設されました。戦時中は金属回収のため供出
されましたが昭和26年(1951)に再建されました。
マルハは中部幾次郎が創設した林兼(はやしかね)商店の「は」に由来する。
中部幾次郎之像と台座の銘板に書かれています。
書は正二位 勲一等 伯爵 伊東巳代治氏です。
伊東巳代治氏の紹介 By Wikipedia
伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日(1857年5月29日) -
昭和9年(1934年)2月19日)は、明治、大正、昭和期の官僚、政治家。
従二位勲一等伯爵。長崎県出身。
早くから英語を修め語学を修得。兵庫県訳官を経て明治4年(1871年)に上京、
伊藤博文の知遇を得て明治政府の工部省に出仕。
明治15年(1882年)に欧州憲法調査に随行、帰国後伊藤の秘書官として井上毅・
金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。明治22年(1889年)に首相秘書官、
明治23年(1890年には貴族院議員に勅選され、明治25年(1892年)に
第2次伊藤内閣の内閣書記官長、枢密院書記官長、明治31年(1898年)に
第3次伊藤内閣の農商務大臣等の要職を務め、政党工作に力を振るった。
また、明治24年(1891年)には、経営が傾いた東京日日新聞(現在の毎日新聞)
を買収、在官のまま第3代社長を勤め、日清戦争から日露戦争にいたるまでの
日本の政治・外交において、政府擁護の論陣を張った。
明治37年(1904年)、加藤高明に売却するまで13年間社長を務めている。
さらに詳細はこちら
上の2枚の写真が中部幾次郎氏(1866-1946 )の銅像です。
中部幾次郎氏の略歴をWikipediaをベースに追記したものを添付します。
林兼(はやしかね)商店(大洋漁業株式会社の前身)の創立者。
鮮魚の運搬・卸を生業とする鮮魚商林屋兼松・みつの次男として慶応2年(1866)1月4日
播磨国明石郡林村(現・兵庫県明石市林)に生まれる。
明治4年(1871)中部姓を名乗ることになる。
8歳で兄が死去したため家業を継ぐことになる。
明治30年(1897)、小蒸気船を賃借し、日本ではじめて汽船を鮮魚運搬の曳船に利用。
明治37年(1904)に明石から山口県下関へ移り、
明治38年(1905)大阪清水鉄工所(鍛冶職)協力を得て2人で石油発動力機鮮魚運搬船
新生丸を自力建造、この船で明治末に買付範囲を東シナ海、朝鮮まで開拓拡大する。
大正5年(1916)、朝鮮でまき網漁業・定置網漁業などの漁業に進出。
大正13年(1924)9月1日に大洋漁業の前身となる林兼商店を創立
(正確には林兼漁業・林兼冷蔵・林兼商店の株式会社3社)
大正14年(1925)9月3社を合併して林兼商店とする。
大正11年(1922)市立明石中学校の建設費の半額を負担。
昭和時代になって、北洋の蟹・鮭鱒漁業(途中撤退)及び南氷洋捕鯨に進出。
漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げた
1930年(昭和5年)から1943年(昭和18年)まで下関商工会議所会頭。
1946年(昭和21年)勅選貴族院議員となる。
昭和21年(1946)5月19日、81歳で没した。
墓は明石市鍛冶町の光明寺にある。
戦後の食糧難を解決するためにと、早急に捕鯨を再開することをGHQに進言。
捕鯨許可は出たが船団の出航を見ることなく死去した。
子に大洋漁業2代目社長の中部兼市、3代目社長の中部謙吉、副社長および
林兼産業会長の中部利三郎。
孫に幾徳学園元理事長の中部謙次郎、4代目社長の中部藤次郎、5代目社長の
中部新次郎、6代目社長の中部慶次郎、元マルハニチロHD副社長の
中部謙(以上、謙吉の子)、アマチュアゴルファーの中部銀次郎(利三郎の子)。
曾孫に幾徳学園理事長の中部謙一郎(謙次郎の子)、大東通商社長の
中部由郎(慶次郎の子)。
幾徳学園は彼の名前に由来する。
上の写真は中部幾次郎氏の銅像の説明板。
マルハニチロホールディングスの公式HPへのリンク
会社情報の沿革のマルハの画面に中部幾次郎の名前も出てきます。
上の写真は中部幾次郎氏の銅像付近から明石城の堀の噴水の風景を撮ったものです。
当日は第84回明石公園菊花展覧会も開催されていました。
中部幾次郎(なかべいくじろう)氏の銅像が建っています。
2012年10月26日(金)に写真を撮りましたので紹介します。
銅像は昭和3年(1928)11月に明石市により建設されました。戦時中は金属回収のため供出
されましたが昭和26年(1951)に再建されました。
マルハは中部幾次郎が創設した林兼(はやしかね)商店の「は」に由来する。
中部幾次郎之像と台座の銘板に書かれています。
書は正二位 勲一等 伯爵 伊東巳代治氏です。
伊東巳代治氏の紹介 By Wikipedia
伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日(1857年5月29日) -
昭和9年(1934年)2月19日)は、明治、大正、昭和期の官僚、政治家。
従二位勲一等伯爵。長崎県出身。
早くから英語を修め語学を修得。兵庫県訳官を経て明治4年(1871年)に上京、
伊藤博文の知遇を得て明治政府の工部省に出仕。
明治15年(1882年)に欧州憲法調査に随行、帰国後伊藤の秘書官として井上毅・
金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。明治22年(1889年)に首相秘書官、
明治23年(1890年には貴族院議員に勅選され、明治25年(1892年)に
第2次伊藤内閣の内閣書記官長、枢密院書記官長、明治31年(1898年)に
第3次伊藤内閣の農商務大臣等の要職を務め、政党工作に力を振るった。
また、明治24年(1891年)には、経営が傾いた東京日日新聞(現在の毎日新聞)
を買収、在官のまま第3代社長を勤め、日清戦争から日露戦争にいたるまでの
日本の政治・外交において、政府擁護の論陣を張った。
明治37年(1904年)、加藤高明に売却するまで13年間社長を務めている。
さらに詳細はこちら
上の2枚の写真が中部幾次郎氏(1866-1946 )の銅像です。
中部幾次郎氏の略歴をWikipediaをベースに追記したものを添付します。
林兼(はやしかね)商店(大洋漁業株式会社の前身)の創立者。
鮮魚の運搬・卸を生業とする鮮魚商林屋兼松・みつの次男として慶応2年(1866)1月4日
播磨国明石郡林村(現・兵庫県明石市林)に生まれる。
明治4年(1871)中部姓を名乗ることになる。
8歳で兄が死去したため家業を継ぐことになる。
明治30年(1897)、小蒸気船を賃借し、日本ではじめて汽船を鮮魚運搬の曳船に利用。
明治37年(1904)に明石から山口県下関へ移り、
明治38年(1905)大阪清水鉄工所(鍛冶職)協力を得て2人で石油発動力機鮮魚運搬船
新生丸を自力建造、この船で明治末に買付範囲を東シナ海、朝鮮まで開拓拡大する。
大正5年(1916)、朝鮮でまき網漁業・定置網漁業などの漁業に進出。
大正13年(1924)9月1日に大洋漁業の前身となる林兼商店を創立
(正確には林兼漁業・林兼冷蔵・林兼商店の株式会社3社)
大正14年(1925)9月3社を合併して林兼商店とする。
大正11年(1922)市立明石中学校の建設費の半額を負担。
昭和時代になって、北洋の蟹・鮭鱒漁業(途中撤退)及び南氷洋捕鯨に進出。
漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げた
1930年(昭和5年)から1943年(昭和18年)まで下関商工会議所会頭。
1946年(昭和21年)勅選貴族院議員となる。
昭和21年(1946)5月19日、81歳で没した。
墓は明石市鍛冶町の光明寺にある。
戦後の食糧難を解決するためにと、早急に捕鯨を再開することをGHQに進言。
捕鯨許可は出たが船団の出航を見ることなく死去した。
子に大洋漁業2代目社長の中部兼市、3代目社長の中部謙吉、副社長および
林兼産業会長の中部利三郎。
孫に幾徳学園元理事長の中部謙次郎、4代目社長の中部藤次郎、5代目社長の
中部新次郎、6代目社長の中部慶次郎、元マルハニチロHD副社長の
中部謙(以上、謙吉の子)、アマチュアゴルファーの中部銀次郎(利三郎の子)。
曾孫に幾徳学園理事長の中部謙一郎(謙次郎の子)、大東通商社長の
中部由郎(慶次郎の子)。
幾徳学園は彼の名前に由来する。
上の写真は中部幾次郎氏の銅像の説明板。
マルハニチロホールディングスの公式HPへのリンク
会社情報の沿革のマルハの画面に中部幾次郎の名前も出てきます。
上の写真は中部幾次郎氏の銅像付近から明石城の堀の噴水の風景を撮ったものです。
当日は第84回明石公園菊花展覧会も開催されていました。
by seiyo39
| 2012-10-30 05:33
| 神戸以外の兵庫県
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