2012年 11月 04日
明石市ウォーキング協会2012年11月例会 古墳ウォーク参加録 on 2012-11-3 |
2012年11月3日(土)に明石市ウォーキング協会2012年11月例会 古墳ウォーク
に参加しましたので記憶に留めるためメモ書きとして残しておきます。
コースはJR垂水駅北東広場を出発して青木禅寺、五色塚古墳などをめぐり
JR舞子駅で解散の約5Kmのコースでした。
地図で歩いたコースを示します。

地図に番号がふってありますがその順番で訪問しました。
スタート(JR垂水駅北東広場)→①くがの公園→②青木禅寺→③遊女塚→④五色塚古墳
→⑤県立舞子公園→⑥移情閣→⑦JR舞子駅(ゴール)
各場所の説明と写真を紹介します。
①くがの公園-----写真及び説明なし
②青木禅寺(せいぼくぜんじ)
青木禅寺の基本情報
住所:神戸市垂水区旭丘1-8-9
宗派:臨済宗南禅寺派
敷地内に神戸市市民の木に指定のクロマツがあります。

上の写真は市民の木に指定されているクロマツの見事な有姿です。

上の写真は青木禅寺の境内。
③遊女塚
神戸市教育委員会作成の説明板より引用させていただきます。
石造宝篋印塔(遊女塚)
県指定重要文化財(指定 昭和四十六年)
このような形の塔を宝篋印塔といいます。日本にだけ見られる形の塔で、
峠や村境などに建てられ人々の安全を守ってくれると信じられていました。
この塔は、総高四メートルにおよぶ大きなもので、他にあまり例のないものです。
塔自体が大日如来で中央部四方にある梵字は、それぞれ如来仏をあらわしています。
笠石の四隅にある三角形の突起の梵字は如来を守る四天王と如来に奉仕する
四菩薩を示しています。
台石に掛け振られた十三行の文字には塔創立の功徳と、この塔が建武4年
(1337)三月に士忠禅師によって建てられたことが書かれています。
塔はもと、山陽道に沿った丘の上に建てられていましたが、鉄道開通
(明治二十一年)によって現在地にうつされました。
垂水の沖で舟から落ち溺死した遊女の供養塔であるなどの伝説により
遊女塚と呼ばれている。

④五色塚古墳
住所:兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目 TEL:078-707-3131(月曜 定休)
五色塚古墳は3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、
後円部で18mである。
(上段の長さは約150m中段の長さは約170m下段の長さは約194m)
後円部の直径は墳頂で約30m、段部で約72m中段で約100m、下段で約125mである。
兵庫県下で最大の古墳である。全国では40番目の大きさ。
築造年代は4世紀末か5世紀初頭であろうと推定されています。
被葬者は地方の豪族と推定されています。
日本書紀の記述でも五色塚古墳に関する部分があり仲哀天皇の偽の墓で葺石(ふきいし)
は淡路島から船で運んできたと記載されています。
石室なども丁寧につくられており、偽物ではないとの見方もあります。
斜面には葺石(ふきいし)が葺かれその数は223万個 重量にして2,784トンあります。
葺石は下段のほうは地元の古墳周辺から集められた小石で上段部になると大きなものだと
直径30cmくらいにもなり淡路島から運ばれてきたと推定されています。
さらに出土した埴輪は総数2,200本と推定されています。
五色塚古墳の西側には直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」があります。
五色塚古墳は大正10年(1921)に小壷古墳(円墳)とともに国指定史跡に
指定されています。
昭和40年(1965)から史跡環境整備計画の一環として約10年の歳月をかけて
復旧復元工事が行われ現在に至っています。
東側のくびれ部には1辺約20m高さ1.5mの方形墳(マウント)が築かれている。(現存)
マウントの斜面には葺石が葺かれていました。葺石の上から土師器(はじき)
須恵器(すえき)、埴輪などの破片も発見されています。
さらに北東マウントからは埴輪円筒棺が2個発見されました。
マウントは現在は芝生で整備されています。
また西側にも小さな小墳丘が存在していたことが過去の調査で確認されている。
五色塚古墳の周辺には遊女塚、小塚、四ツ塚、七ツ塚などと呼ばれる小古墳が存在
していたと伝えられているが位置や基数など発掘されておらず不明である。
詳細は小生のBlog1
小生のBlog2
さらに「日本書紀」神功摂政元年(248)二月の記事に、神功皇后が筑紫で
誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)を出産したとの報を聞いた
仲哀天皇の二人の皇子(麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ))
が瀬戸内海を東上する神功皇后の軍を迎え討とうとして、仲哀の陵(みささぎ)
を造ると偽り、「播磨に詣りて山陵を赤石に興(た)つ。仍りて船を編みて
淡路嶋にして、其の嶋の石を運びて造る」とある。
麛坂王の軍には犬上君の祖である倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)の祖、
五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が従っていた彼らは将軍として東国兵を興させた。
ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を
占う狩を行った際、麛坂王が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした
忍熊王は住吉に後退した。
一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、
紀伊に上陸した。皇子軍(麛坂王&忍熊王)は更に退いて菟道(うじ)に陣立てし、
武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の
策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れた。
上記の記述の信憑性には問題があるもののこれらが真実であるとすれば
五色塚古墳は仲哀天皇の墓ということになります。
さらに司馬江漢の「西遊日記」にも「仲哀王皇の陵、千壺の処、山にのほり見ルに、
生焼のつぼ径り一尺余の物、数々アリ、皆破レたり」と記されています。
14代天皇仲哀(ちゅうあい)天皇の陵墓はWikipediaより下記のとおり
恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。
『日本書紀』に「河内国長野陵」、『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の
長江にあり」とする。
同陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)に比定される。
幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、
部分的に改変されている。
仲哀天皇は実在していなっかったとの説もあり確定はしていないのが現状であろう。

上の写真は五色塚古墳のリーフレットよりコピーしたものです。

上の写真は昭和49年(1974)に五色塚古墳が整備された頃の五色塚古墳付近の
上空写真です。市民のグラフ こうべNo.25(1974.2)よりコピー。
⑤県立舞子公園
垂水区の西側あたりから明石市の東あたり一帯の浜を、古くは舞子の浜と呼び、
須磨の浜と並ぶ名所で、江戸時代には旅の休憩所として多くの待合茶屋が存在した。
明治時代に入ると明治天皇や有栖川宮がよく訪れ、明治21年に有栖川宮別邸
(舞子ビラ)が設けられてからは、政財界人の別邸が近隣に建設されるようになった。
現在はその舞子の浜の松林を含む一帯は公園として憩いの場となり、
岸壁には釣り人がいる。週末には、明石海峡大橋などを見にくる観光客が数多く訪れる。
以上Wikipediaより引用

上の写真は播州名所巡覧図絵の舞子の浜の絵です。
昔から舞子の浜は対岸に淡路島をを臨む景勝の地であったようです。

明石海峡大橋を臨む現代の舞子公園です。
小生の舞子公園を紹介したBlog
⑥移情閣
小生のBlogによる移情閣の紹介
移情閣にはいろんな呼び名があり別名孫文記念館、六角堂、八角堂などとも呼ばれています。
本年7月28日に流通科学大学の奥野志偉教授による南京町の形成と歴史の講演の中で、
孫文記念館に関するG&Aがあり移情閣の歴史を理解する上で参考になり面白いと思ったので
それも紹介しておきます。
質問1 移情閣の名称の由来
答え:2説あり1つは明石海峡や淡路島六甲山系、が一望でき「移り変わる風情」を楽しめるとして移情閣と命名した。もう1つは建築主の呉錦堂氏がここの景色を見ながら故郷中国の景色情緒を思い出すことから移情閣と命名した。
質問2 国の重要文化財の指定を受けた主体は何か?その理由は?
答え:平成13年(2001)国の重要文化財に指定されていますがその主体は移情閣(8角形の建物)のみである。受けた理由は大正4年(1915)呉錦堂氏の還暦と実業界からの引退を記念
して建てられた日本最古の木骨コンクリートブロック建造物であるから。
質問3 孫文は呉錦堂の松海別荘を訪問した時、移情閣に行ったか?
答え:孫文と松海山荘との関わりは孫文が大正2年(1913)3月14日神戸に来たとき神戸の中国人日本の財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場に使用されたときにはじまります。
一方、移情閣の建設は大正4年(1915)春なので孫文が移情閣に行ったことはありえない。
孫文記念館のHP。



上の写真(3枚)は当日(2012-11-3)撮った移情閣である。
に参加しましたので記憶に留めるためメモ書きとして残しておきます。
コースはJR垂水駅北東広場を出発して青木禅寺、五色塚古墳などをめぐり
JR舞子駅で解散の約5Kmのコースでした。
地図で歩いたコースを示します。

地図に番号がふってありますがその順番で訪問しました。
スタート(JR垂水駅北東広場)→①くがの公園→②青木禅寺→③遊女塚→④五色塚古墳
→⑤県立舞子公園→⑥移情閣→⑦JR舞子駅(ゴール)
各場所の説明と写真を紹介します。
①くがの公園-----写真及び説明なし
②青木禅寺(せいぼくぜんじ)
青木禅寺の基本情報
住所:神戸市垂水区旭丘1-8-9
宗派:臨済宗南禅寺派
敷地内に神戸市市民の木に指定のクロマツがあります。

上の写真は市民の木に指定されているクロマツの見事な有姿です。

上の写真は青木禅寺の境内。
③遊女塚
神戸市教育委員会作成の説明板より引用させていただきます。
石造宝篋印塔(遊女塚)
県指定重要文化財(指定 昭和四十六年)
このような形の塔を宝篋印塔といいます。日本にだけ見られる形の塔で、
峠や村境などに建てられ人々の安全を守ってくれると信じられていました。
この塔は、総高四メートルにおよぶ大きなもので、他にあまり例のないものです。
塔自体が大日如来で中央部四方にある梵字は、それぞれ如来仏をあらわしています。
笠石の四隅にある三角形の突起の梵字は如来を守る四天王と如来に奉仕する
四菩薩を示しています。
台石に掛け振られた十三行の文字には塔創立の功徳と、この塔が建武4年
(1337)三月に士忠禅師によって建てられたことが書かれています。
塔はもと、山陽道に沿った丘の上に建てられていましたが、鉄道開通
(明治二十一年)によって現在地にうつされました。
垂水の沖で舟から落ち溺死した遊女の供養塔であるなどの伝説により
遊女塚と呼ばれている。

④五色塚古墳
住所:兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目 TEL:078-707-3131(月曜 定休)
五色塚古墳は3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、
後円部で18mである。
(上段の長さは約150m中段の長さは約170m下段の長さは約194m)
後円部の直径は墳頂で約30m、段部で約72m中段で約100m、下段で約125mである。
兵庫県下で最大の古墳である。全国では40番目の大きさ。
築造年代は4世紀末か5世紀初頭であろうと推定されています。
被葬者は地方の豪族と推定されています。
日本書紀の記述でも五色塚古墳に関する部分があり仲哀天皇の偽の墓で葺石(ふきいし)
は淡路島から船で運んできたと記載されています。
石室なども丁寧につくられており、偽物ではないとの見方もあります。
斜面には葺石(ふきいし)が葺かれその数は223万個 重量にして2,784トンあります。
葺石は下段のほうは地元の古墳周辺から集められた小石で上段部になると大きなものだと
直径30cmくらいにもなり淡路島から運ばれてきたと推定されています。
さらに出土した埴輪は総数2,200本と推定されています。
五色塚古墳の西側には直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」があります。
五色塚古墳は大正10年(1921)に小壷古墳(円墳)とともに国指定史跡に
指定されています。
昭和40年(1965)から史跡環境整備計画の一環として約10年の歳月をかけて
復旧復元工事が行われ現在に至っています。
東側のくびれ部には1辺約20m高さ1.5mの方形墳(マウント)が築かれている。(現存)
マウントの斜面には葺石が葺かれていました。葺石の上から土師器(はじき)
須恵器(すえき)、埴輪などの破片も発見されています。
さらに北東マウントからは埴輪円筒棺が2個発見されました。
マウントは現在は芝生で整備されています。
また西側にも小さな小墳丘が存在していたことが過去の調査で確認されている。
五色塚古墳の周辺には遊女塚、小塚、四ツ塚、七ツ塚などと呼ばれる小古墳が存在
していたと伝えられているが位置や基数など発掘されておらず不明である。
詳細は小生のBlog1
小生のBlog2
さらに「日本書紀」神功摂政元年(248)二月の記事に、神功皇后が筑紫で
誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)を出産したとの報を聞いた
仲哀天皇の二人の皇子(麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ))
が瀬戸内海を東上する神功皇后の軍を迎え討とうとして、仲哀の陵(みささぎ)
を造ると偽り、「播磨に詣りて山陵を赤石に興(た)つ。仍りて船を編みて
淡路嶋にして、其の嶋の石を運びて造る」とある。
麛坂王の軍には犬上君の祖である倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)の祖、
五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が従っていた彼らは将軍として東国兵を興させた。
ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を
占う狩を行った際、麛坂王が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした
忍熊王は住吉に後退した。
一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、
紀伊に上陸した。皇子軍(麛坂王&忍熊王)は更に退いて菟道(うじ)に陣立てし、
武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の
策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れた。
上記の記述の信憑性には問題があるもののこれらが真実であるとすれば
五色塚古墳は仲哀天皇の墓ということになります。
さらに司馬江漢の「西遊日記」にも「仲哀王皇の陵、千壺の処、山にのほり見ルに、
生焼のつぼ径り一尺余の物、数々アリ、皆破レたり」と記されています。
14代天皇仲哀(ちゅうあい)天皇の陵墓はWikipediaより下記のとおり
恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。
『日本書紀』に「河内国長野陵」、『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の
長江にあり」とする。
同陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)に比定される。
幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、
部分的に改変されている。
仲哀天皇は実在していなっかったとの説もあり確定はしていないのが現状であろう。

上の写真は五色塚古墳のリーフレットよりコピーしたものです。

上の写真は昭和49年(1974)に五色塚古墳が整備された頃の五色塚古墳付近の
上空写真です。市民のグラフ こうべNo.25(1974.2)よりコピー。
⑤県立舞子公園
垂水区の西側あたりから明石市の東あたり一帯の浜を、古くは舞子の浜と呼び、
須磨の浜と並ぶ名所で、江戸時代には旅の休憩所として多くの待合茶屋が存在した。
明治時代に入ると明治天皇や有栖川宮がよく訪れ、明治21年に有栖川宮別邸
(舞子ビラ)が設けられてからは、政財界人の別邸が近隣に建設されるようになった。
現在はその舞子の浜の松林を含む一帯は公園として憩いの場となり、
岸壁には釣り人がいる。週末には、明石海峡大橋などを見にくる観光客が数多く訪れる。
以上Wikipediaより引用

上の写真は播州名所巡覧図絵の舞子の浜の絵です。
昔から舞子の浜は対岸に淡路島をを臨む景勝の地であったようです。

明石海峡大橋を臨む現代の舞子公園です。
小生の舞子公園を紹介したBlog
⑥移情閣
小生のBlogによる移情閣の紹介
移情閣にはいろんな呼び名があり別名孫文記念館、六角堂、八角堂などとも呼ばれています。
本年7月28日に流通科学大学の奥野志偉教授による南京町の形成と歴史の講演の中で、
孫文記念館に関するG&Aがあり移情閣の歴史を理解する上で参考になり面白いと思ったので
それも紹介しておきます。
質問1 移情閣の名称の由来
答え:2説あり1つは明石海峡や淡路島六甲山系、が一望でき「移り変わる風情」を楽しめるとして移情閣と命名した。もう1つは建築主の呉錦堂氏がここの景色を見ながら故郷中国の景色情緒を思い出すことから移情閣と命名した。
質問2 国の重要文化財の指定を受けた主体は何か?その理由は?
答え:平成13年(2001)国の重要文化財に指定されていますがその主体は移情閣(8角形の建物)のみである。受けた理由は大正4年(1915)呉錦堂氏の還暦と実業界からの引退を記念
して建てられた日本最古の木骨コンクリートブロック建造物であるから。
質問3 孫文は呉錦堂の松海別荘を訪問した時、移情閣に行ったか?
答え:孫文と松海山荘との関わりは孫文が大正2年(1913)3月14日神戸に来たとき神戸の中国人日本の財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場に使用されたときにはじまります。
一方、移情閣の建設は大正4年(1915)春なので孫文が移情閣に行ったことはありえない。
孫文記念館のHP。



上の写真(3枚)は当日(2012-11-3)撮った移情閣である。
by seiyo39
| 2012-11-04 07:19
| 神戸情報
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