菅公旅次遺跡碑 on 2012-10-26 |
菅原道真は延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け
醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。
右大臣(今でいうなら、実権のある副総理ぐらいのポジション)だった菅原道真は、
藤原氏との熾烈な政権抗争に敢えなく敗れ、太宰権帥(だざいのごんのそつ、
現在の福岡県副知事ぐらい)に降格左遷されたのである。
左遷された道真が大宰府までの道中に明石に逗留した。
当初海路で大宰府まで行こうとしたそうだ。しかし、現在の神戸港最西端にある
和田岬で時化に巻き込まれ、須磨~長田の海岸に上陸せざるを得なかった。
現在も須磨の周辺には菅原道真公ゆかりの元宮長田神社、綱敷神社、
板を囲って野営した事実に因んで名付けられた板宿の地名が残る。
さらに菅原道真公は古山陽道で多井畑、下畑を塩屋谷川沿いに塩屋に抜けた。
塩屋には管公橋の名が残っています。
塩屋からは明石駅家(うまや)の駅長(うまやのおさ)が
明石の駅家(太寺廃寺現在の高家寺辺りに所在)まで陸路で案内したと伝わる。
これらの事実を記念して、この碑(菅公旅次遺跡碑)が建てられたようです。


上の2枚の写真が菅公旅次遺跡碑の近景と遠景です。
碑には菅公旅次遺跡という文字と大鏡からの文章で
駅長(えきのおさ)驚くことなかれ 時の変改(へんがい)するを
一栄一落(いちえいいちらく) 是れ春秋
(駅長無驚時変改 一栄一落是春秋)
上記が碑の側面に漢語(古文)で書かれています。碑の書は明石名勝故事談の
著者 橋本海関です。
意訳:駅長そんなに驚くことはないぞ 時勢が変わり今や私が配流の身になって
落ちていくことを、春に咲き、秋に落ち葉するのは、自然の摂理
人の世の栄枯盛衰もまた同じなのだから
太宰府に赴任してからの菅原道真の実生活は、米塩も欠くような悲惨な生活で、
愚痴ばかりこぼしていたという記録もあり、左遷から僅か2年経った延喜3年(903)
失意のうちに58歳で他界している。

上の写真は本日紹介した菅公旅次遺跡碑と明石駅屋の所在地だったとされる
高家寺への案内の看板です。
明石駅家の「駒手の御井」に関する伝承について少し述べておきます。
現存する『播磨国風土記』は明石郡のすべてを欠いているが明石郡に関する記述は、かろうじて『釈日本紀』が引く播磨国風土記逸文に残っている。
その中に「駒手の御井」の記述があります。
難波高津宮の天皇(*仁徳天皇)の御世、楠が井(駒手の御井)の上に生えて、朝日には淡路島を陰にし、夕日には大倭島根を陰にした。
そこで、その楠を伐って船を造ったが、その速いことはまるで飛ぶようで、梶のひと掻きで七つの浪を越えていったため、速鳥と名づけた。
そして、朝夕この船に乗り、天皇のお食事にそなえ奉るためにこの井の水を汲んでいたが、ある朝、お食事の時間に遅れてしまった。
そのため、歌を作って止めにした。その歌にいう、
住吉(すみのえ)の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥といはめ 何か速鳥
駒手の御井のあった場所が駅屋跡=菅公旅次遺跡碑のある場所であろうとされています。
菅公旅次遺跡の所在地
明石市太寺2丁目と太寺天王町の境界付近
菅公旅次遺跡碑の地図を国土地理院2万5000分の1で示します。
中央の経緯度 北緯34度39分18.9秒 東経135度0分12.7秒
+印が菅公旅次遺跡碑のある位置です。
上の写真の案内板は菅公旅次遺跡碑の南側150mの交差点付近にあります。
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