2012年 11月 16日
江井島港の泊のモニュメント on 2012-10-17 |
本日は江井島港の泊のモニュメントを写真紹介します。



上の3枚が魚住泊のモニュメントです。
大体の土地勘を養うために江井島漁港のモニュメントの所在地の地図を
国土地理院2万5000分の1の地図で示しておきます。
中央の経緯度 北緯34度40分33.1秒 東経134度54分40.6秒
+印が江井島漁港のモニュメントの大体の所在地
江井島(江井ヶ島)の地割は
東から順に、東江井、西江井、東島、西島
現地の説明板より引用掲載させていただきます。
「往きめぐり
見とも飽かめや名寸隅(なきすみ)の
船瀬の浜にしきる白波」
奈良時代の始め、聖武天皇が播磨の国に来られたとき、随行の歌人、笠金村が
江井島の浜に始終白波が寄せて来る眺めを讃えた和歌です。
名寸隅の船瀬とは、江井島の赤根川河口に石椋で築島を設けた港の旧称で、
その後、魚住泊と呼ばれ、播磨・摂津の五泊の一つとして重要な港でした。
各泊の間はそれぞれ一日の航程の距離で、僧行基が定めたとされています。
沖合には好漁場が多く、鯛や蛸の獲れる港としてもよく知られています。
この度の物揚場築造工事で、石椋に使用されていた玉石が数多く発見された
ので、当時をしのび、ここに集めてモニュメントを建立しました。
平成五年十一月 兵庫県
裏面の説明書き
このモニュメントの形は、外界の荒海から堅固に囲われた波静かな港を
表わしています。
中心の空間が港 上の隙間の部分が水路また全体の形は
UOZUMI(魚住)のUの字のイメージで形を造りました
創作者 竹内 巖(いわお)
題字(泊) 明石市長 岡田 進裕
播磨・摂津の5泊は室津(龍野市御津)、韓(姫路市的形)、大輪田(神戸市兵庫区)
河尻(尼崎市神埼川)、魚住(明石市)
名寸隅(なきすみ)の船瀬は旧称で、その後、魚住泊と呼ばれるようになった
笠金村(かさのかなむら)の歌は神亀3年(726)に、聖武天皇の印南郡への行幸に際して作った歌
万葉集から「名寸隅」の情景を歌った笠金村の代表作を掲載しておきます。
名寸隅(なきすみ)の、舟瀬(ふなせ)ゆ見ゆる、淡路島(あはぢしま)、
松帆(まつほ)の浦に、朝なぎに、玉藻(たまも)刈りつつ、夕なぎに、
藻塩(もしほ)焼きつつ、海人娘女(あまをとめ)、ありとは聞けど、見に行かむ、
よしのなければ、ますらをの、心はなしに、手弱女(たわやめ)の、
思ひたわみて、たもとほり、我れはぞ恋ふる、舟楫(ふなかぢ)をなみ
船瀬(舟瀬)は人工的に作られた簡易的な船泊まりである
この船瀬を使用した歌(詩)として江井島小学校の校歌がありますので歌詞を
紹介しておきます。作詞者は阪口保氏です。
波静かなる 瀬戸の内
明石の浦の 磯づたい
遠き祖先の 築きけん
船瀬の跡さえ なお残る
家並みにぎわう わが郷土
ああ江井島 我らの誇り
名も美しき 赤根川
流れをはるか 尋ぬれば
明治四年に 創(はじ)まれり
「精於萬(よろずにくわし)」と 横書きの
文字珍しき わが校舎
ああ江井島 我らの誇り
未来(すえ)栄えゆく 人の世の
礎(いしずえ)となる 良き子らよ
広き世界を 結ぶべき
平和の心を 高めんと
いま誓い合う わが校歌
ああ江井島 我らの誇り
名寸隅(なきすみ)と魚住の名前の由来について
吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』で紹介されている説に
下記の4つの説があります。
(1)名寸隅は魚来住(なきすみ)の意で、それが魚住(なずみ)となり
魚住(うをずみ)に転じたとする説。
(2)魚住の誤写説
(3)魚(ナ)蔵(キスミ)の意として船の枕詞とする説
(4)凪隅の説



上の3枚が魚住泊のモニュメントです。
大体の土地勘を養うために江井島漁港のモニュメントの所在地の地図を
国土地理院2万5000分の1の地図で示しておきます。
中央の経緯度 北緯34度40分33.1秒 東経134度54分40.6秒
+印が江井島漁港のモニュメントの大体の所在地
江井島(江井ヶ島)の地割は
東から順に、東江井、西江井、東島、西島
現地の説明板より引用掲載させていただきます。
「往きめぐり
見とも飽かめや名寸隅(なきすみ)の
船瀬の浜にしきる白波」
奈良時代の始め、聖武天皇が播磨の国に来られたとき、随行の歌人、笠金村が
江井島の浜に始終白波が寄せて来る眺めを讃えた和歌です。
名寸隅の船瀬とは、江井島の赤根川河口に石椋で築島を設けた港の旧称で、
その後、魚住泊と呼ばれ、播磨・摂津の五泊の一つとして重要な港でした。
各泊の間はそれぞれ一日の航程の距離で、僧行基が定めたとされています。
沖合には好漁場が多く、鯛や蛸の獲れる港としてもよく知られています。
この度の物揚場築造工事で、石椋に使用されていた玉石が数多く発見された
ので、当時をしのび、ここに集めてモニュメントを建立しました。
平成五年十一月 兵庫県
裏面の説明書き
このモニュメントの形は、外界の荒海から堅固に囲われた波静かな港を
表わしています。
中心の空間が港 上の隙間の部分が水路また全体の形は
UOZUMI(魚住)のUの字のイメージで形を造りました
創作者 竹内 巖(いわお)
題字(泊) 明石市長 岡田 進裕
播磨・摂津の5泊は室津(龍野市御津)、韓(姫路市的形)、大輪田(神戸市兵庫区)
河尻(尼崎市神埼川)、魚住(明石市)
名寸隅(なきすみ)の船瀬は旧称で、その後、魚住泊と呼ばれるようになった
笠金村(かさのかなむら)の歌は神亀3年(726)に、聖武天皇の印南郡への行幸に際して作った歌
万葉集から「名寸隅」の情景を歌った笠金村の代表作を掲載しておきます。
名寸隅(なきすみ)の、舟瀬(ふなせ)ゆ見ゆる、淡路島(あはぢしま)、
松帆(まつほ)の浦に、朝なぎに、玉藻(たまも)刈りつつ、夕なぎに、
藻塩(もしほ)焼きつつ、海人娘女(あまをとめ)、ありとは聞けど、見に行かむ、
よしのなければ、ますらをの、心はなしに、手弱女(たわやめ)の、
思ひたわみて、たもとほり、我れはぞ恋ふる、舟楫(ふなかぢ)をなみ
船瀬(舟瀬)は人工的に作られた簡易的な船泊まりである
この船瀬を使用した歌(詩)として江井島小学校の校歌がありますので歌詞を
紹介しておきます。作詞者は阪口保氏です。
波静かなる 瀬戸の内
明石の浦の 磯づたい
遠き祖先の 築きけん
船瀬の跡さえ なお残る
家並みにぎわう わが郷土
ああ江井島 我らの誇り
名も美しき 赤根川
流れをはるか 尋ぬれば
明治四年に 創(はじ)まれり
「精於萬(よろずにくわし)」と 横書きの
文字珍しき わが校舎
ああ江井島 我らの誇り
未来(すえ)栄えゆく 人の世の
礎(いしずえ)となる 良き子らよ
広き世界を 結ぶべき
平和の心を 高めんと
いま誓い合う わが校歌
ああ江井島 我らの誇り
名寸隅(なきすみ)と魚住の名前の由来について
吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』で紹介されている説に
下記の4つの説があります。
(1)名寸隅は魚来住(なきすみ)の意で、それが魚住(なずみ)となり
魚住(うをずみ)に転じたとする説。
(2)魚住の誤写説
(3)魚(ナ)蔵(キスミ)の意として船の枕詞とする説
(4)凪隅の説
by seiyo39
| 2012-11-16 06:55
| 神戸以外の兵庫県
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