烏原貯水池の概要と初代神戸市長鳴瀧幸恭の銘板 |
堰堤の取水口上屋に標題の銘板の写真を撮りましたので紹介します。
烏原池貯水池は、明治10年(1877)に神戸市にコレラが流行した時に、
伝染病を予防する為にも貯水池が必要で、当時水道市長と呼ばれた鳴滝幸恭
(なるたき ゆききよ)が取り組み、ダム工事を完成させました。
まず、烏原貯水池の概要を現地の説明板より引用紹介します。
(一部加筆)
着工:明治34年(1901)6月
完成:明治38年(1905)5月
大正4年(1915)3月ダムの高さを2.7m かさ上げし現在の高さとする
平成16年(2004)石井ダムの完成
(新湊川のオーバーフローによる浸水対策 烏原貯水池の治水)
ダム名:立ケ畑ダム
設計者:佐野藤次郎
ダムの高さ:33m
ダムの長さ:122m
貯水量:1,315.139㎥
上の写真は堰堤の遠景です。当日はそこそこの水量がありました。
上の写真は烏原堰堤の取水口上屋の建物の外観。(ここに後述の銘板があります)
上の銘板写真は英語で建設工事に携わったエンジニア等の名前が掘り込まれている。
判読しずらい字があり間違った部分があるかも知れませんがそのまま記載します。
ENGINEERS
CONSULTING ENGINEER
MR.C.YOSHIMURA M.E. ASSOC.MINST C.E.
吉村長策(顧問技術者)
ENGINEER-IN-CHIEF
MR.T.SANO M.E. ASSOC.MINST C.E.
佐野藤次郎(主任技師)
EXCUTIVE ENGINEER MR.O.ASAMI (T.ASAMIが正解か?)
浅見忠治(監督技師)
DAM RAISED 9FT DUARING 1913-1914
1913-1914に9フィートかさ上げ
烏原立ヶ畑堰堤の建設にあたり佐野藤次郎は浅野忠治を伴い自費でインドの石堰堤調査
に行き、五本松に次ぐ烏原立ヶ畑堰堤は重力式粗石モルタル堰堤として設計した。
モルタルの砂分にはスキル(下等レンガを粉砕して0.15mmフルイを通過したもの)
と呼ばれた微粒分を添加している。
上の銘板写真は養而不窮(やしないてきわまらず)と書かれています。
中国の故事「周易の井、養而不窮也」から採られたものです。
上の銘板は本日の中心人物、初代神戸市長の鳴瀧幸恭(1849~1925)と
2代目神戸市長の坪野平太郎:市長任期 明治34年(1901)5月27日~
明治38年(1905)3月17日です。
銘板をそのまま記載します。
THE KOBE CITY WATER SUPPLY
KARASUWARA RESERVOIR
「烏原」の地名は昔は「からすわら」と呼ばれていたようです
DURATION OF WORKS 1901-1905
工事期間 1901-1905
MR.Y.NARUTAKI 1901-1902
鳴瀧幸恭 1901-1902
MR.H.TSUBONO BL 1902-1904
坪野平太郎 1902-1904
MR.F.KASHIMA MAYOR
鹿島房次郎 市長
第4代市長期間 明治43年(1910)2月28日~大正9年3月12日
鳴瀧幸恭(なるたき ゆききよ)神戸市初代市長についてWikipediaより解説
鳴瀧幸恭(1849~1925)
神戸市長任期 明治22年(1889)5月21日~明治34年(1901)5月20日
嘉永2(1849)年生まれた。京都仁王寺の寺侍の出身で、戊辰戦争に参加したと
いわれている。のち、兵庫県に奉職、内海忠勝知事のもとで活躍した。
明治20 (1887) 年には神戸区長に就任。のち神戸市初代市長に就任した。
鳴瀧の市長就任期は、上水道敷設に尽力し「水道市長」のニックネームで知られる。
当時の神戸市は、たびたび伝染病に見舞われ、上水道敷設は神戸区時代からの
重要な政策課題であった。鳴瀧は、敷設を時期尚早とする市会議員を説得し、
明治30(1897)年第一期工事の竣工をみた。明治34(1901)年に市長退任後は、
神戸銀行頭取、兵庫県農工銀行頭取などをつとめている。
大正14(1925)年、76歳で死去した。
上の写真は神戸市初代市長の鳴滝幸恭氏です。
出典:神戸港開港100年記念誌
上の写真は2代目神戸市長の坪野平太郎です。
出典:神戸港開港100年記念誌
烏原村について(現地の説明板より引用)
「烏原村は、明治37年烏原貯水池築造のため水底に没した。この村の地勢は、
四面連山のなかに起伏があって、中央部のやや平坦なあたりに人家が点在し、
水没時の戸数は98戸、人口414人であった。この村で生産される木皮細末
の線香原料粉は、品質優秀で全国から需要があったといわれている。
貯水池周囲の護岸には線香の材料づくりに使っていた石うす160個が利用
されている。これらの石うすは貯留池築造の際に烏原村の人々が水没によって
離村するにあたり、その足跡を残し、また神戸市の繁栄を願って記念に残した
ものである。このように護岸に石うすを使った例は珍しくデザイン的にも
ユニークなものとなっている。」
上の2枚の写真は石うす160個を使った烏原貯水池の護岸。
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