石室入り口を土で封印 推古陵説の植山古墳 |
視聴しました。
Wikipediaより植山古墳の解説を引用参照したいと思います。
「植山古墳(うえやまこふん)は、奈良県橿原市に所在する終末期の古墳(長方墳)。
2000年(平成12年)に橿原市教育委員会により発掘調査されている。
磯長谷古墳群中の山田高塚古墳(伝推古天皇陵)へ改葬される前の、推古天皇と
その子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと言われている。
2002年に国の史跡に指定されている。
植山古墳は東西40m、南北27mの長方墳(長方形の墳丘の古墳)である。
丘陵の南斜面を利用し、墳丘部分を削りだすようにして築かれている。
墳丘の東・西・北はコの字状に周濠が廻っている。墳丘には、東西に並ぶ2つの
横穴式石室があることから、双室墳と呼ばれることもある。」
我が国最初の女帝である推古天皇は、西暦628年3月7日、75才でこの世を去った。
彼女は崩御する前に次のような遺言を残したことが、『日本書紀』に記されている。
すなわち、「この頃は五穀が実らず、百姓はおおいに飢えている。
私のために陵を建てて厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬れば、それでよろしい」
というものである。群臣たちは遺言に従って、殯(もがり)が明けた9月24日、
竹田皇子が埋葬されている大野の丘の上の陵に、推古天皇の亡骸を葬った。
『古事記』には、後に科長(しなが)の大陵、すなわち現在の推古天皇陵(大阪府太子町付近)
に改葬したと記している。
今回の発掘成果により、上記(改葬)が事実である可能性が大きいことが証明された。
上の切り抜きは2012年12月13日神戸新聞夕刊です。
写真と植山古墳の所在地などが書かれています。