泉隆寺 蓮如の腰掛石と蓮如像 |
撮影:2012-12-17
泉隆寺の基本情報
住所:神戸市中央区中尾町11−21
TEL:078-221-1730
宗派:浄土真宗 本願寺派(西本願寺派) 御本尊:阿弥陀如来
山号:超音山
開基:西順 創建:弘長2年(1262)真言宗の道場として創建
文明3年(1471)本願寺第8代蓮如上人の教化によって住職の圓性(円性)は
蓮如上人に帰依し本願寺の末寺となる。
神戸地方における真宗の発祥の地でもある。
かつて泉隆寺の周辺は「若菜(春の七草)の里」と呼ばれ、ダイコンの葉(すずしろ)の
産地でした。
古く平安時代から、そのダイコンは宮中に献上されたと言われ、生田若菜と呼ばれており
ましたが、その後中断していたのを蓮如上人が復活させました。
現在でも1月7日には境内の畑で採れた大根の葉(すずしろ)を入れた七草粥を参拝者に
振舞う行事が実施されています。
別名「若菜寺」と呼ばれています。
上の写真は史蹟 若菜の里址と書かれた石碑と泉隆寺縁起が書かれた石碑です。
上の写真は蓮如上人の腰掛石の遠景です。
石垣の中には歌碑と蓮如上人腰掛石と書かれた石碑があります。
歌碑には「旅人のみちさまたげは津の国の、生田の浦の若菜なりけり」と刻まれています。
上の写真は境内の蓮如の像です。
蓮如上人についてWikipediaより要約して紹介します。
「蓮如(れんにょ)(1415-1499)は、室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。
本願寺中興の祖といわれ、さびれていた本願寺を息子や弟子と協力して再興した。
「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は信證院。明治15年(1882年)に、
明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。
蓮如は第5夫人との間に13男、14女の子供に恵まれ延徳元年(1489年)75歳で
寺務を五男の実如に譲り、明応5年(1496)に石山本願寺を建立し居所とした。
浄土真宗(一向宗)の信徒の結束力は強く加賀の一向一揆や石山本願寺の宗徒が
織田信長に抗戦したことは有名である。」
上の写真は霊蹟です。加納宗七や神田兵右衛門などの字が見えますがはっきりとした
意味をつかむことができませんでした。
上の2枚の写真は泉隆寺の外観です。
上の写真は摂津名所図会からコピーしたもので平安期(寛平期(889-897))から
七草を朝廷に献上していたとの説明書きがある。
同じく摂津名所図会巻之八の若菜調貢には下記のような説明書きがある。
「若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って禁裏に献る。
七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の御時より始まるとかや。
中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、
この旧例を申し上げ、再興ありて、今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の
東の浜より一町程沖の方、海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の
道場泉隆寺より、京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より
鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり 師輔
『夫木』 問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん 経季
『公事根源』云ふ、
内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
『源氏』若菜巻、
小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
『新古今』 けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子 俊成