日本のシンドラー 杉原千畝 |
に建立された杉原千畝の胸像の記事が掲載された。(下の切り取り記事)
そこで、杉原千畝(すぎはらちうね)に関することをまとめることにしました。
過去に杉原千畝氏についてまとめて書いたこがないが下記のBlogで一部を紹介しています。
シュエケ邸 on 2012-3-29
1940年7月31日から8月28日までの29日間リトアニアカナウスの領事館に勤務
していた杉原千畝は1日300通というスピードでナチスの迫害が逃れようとするユダヤの
人々に日本を通過できるビザを発給し続けた。
ビザを発給されたユダヤ人たちは欧亜国際連絡列車と敦賀経由で日本に渡りその後横浜又は
神戸からアメリカなどに避難することに成功しました。
英文ですが判りやすく解説したサイトがありますのでリンクさせていただきます。
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/sugihara.html
このサイト記事にゆきこ夫人も命のビザの発給の手伝いをしたことが書かれています。
米国にはホロコースト記念博物館がありここのサイトの一部で杉原千畝のことが紹介
されています。
http://www.ushmm.org/wlc/en/article.php?ModuleId=10005594
Wikipediaの記事より杉原 千畝の紹介を引用させていただきます。
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)
7月31日)は、日本の官僚、外交官。
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる[脚注 1] 。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・
ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。
外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人に
のぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった
[脚注 2]。海外では、「日本のシンドラー」[脚注 3] などと呼ばれることがある。
同じくWikipediaの記事からの引用
日本に来たユダヤ難民
リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストックに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、「本邦在外官憲カ欧州避難民ニ与ヘタル通過査証ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再検討ノ上行先國ノ入國手続ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ検印ヲ施ス事」【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】を、ウラジオストックの総領事館に重ねて厳命した。
しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストック総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。
本省とのやり取りは五回にも及び[75]、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたった。
一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」[76]は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」[脚注 35]というものであった。
こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、敦賀港や舞鶴港へ続々上陸。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
難民の内1,000人ほどがアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの杉原に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた[77]。
日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などのは、当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された[78]。安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986)に結実した。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H(1997)も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂の墓』(1967)においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」[79]いたという記述が見られる。日本滞在後難民たちが向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになる。
日本のシンドラーということでシンドラーについて以前に書いた小生のBlogを紹介します。
NHK教育TV ETV特集 シンドラーとユダヤ人 ホロコーストの時代とその後を視聴して
現在もイスラエル(ユダヤ教)とイスラムの根深い対立があり紛争が解決していない現状
です。2008年11月26日午後9時頃に起きたインドムンバイでの同時多発テロも
関連事件で記憶に残っています。