新聞の父 ジョセフ・ヒコが小惑星の名前に |
池谷・関彗星で有名なアマチュア天文家の関勉さんが1990年9月20日に
発見した小惑星(火星と木星も間を公転する直径10Km程度の小惑星)19156
にHECO(ひこ)と命名することを発見者の関勉さんが国際天文学連合の小惑星部会に
申請し、2012年12月28日に決定されたことが公表された。
2012年5月現在、小惑星番号が付けられた天体は32万9243個、その内命名された
のは1万7224個です。
播磨町郷土資料館では3月に関さんを招き記念講演会を開催する予定だそうです。
日時:平成25年3月16日(土曜日) 午後2時~4時 当日受付
場所:兵庫県立考古博物館 講堂
講師:関 勉さん (コメットハンター)
コンサート:宇宙の音色は古代のひびき
定員:先着200名
問い合わせ:播磨町郷土資料館 TEL:079-435-5000
2014年は新聞発行150周年でもあり日本で初めて新聞を作ったジョセフ・ヒコが
注目される年でもあると思います。
上の写真は日本で初めての新聞「海外新聞」で元治元年(1864)7月31日、
岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を横浜で発刊
されたものです。但し展示品(複製)は慶応元年(1865)出版のもの。
播磨町郷土資料館の展示より撮影(撮影日:2013-1-12)
海外新聞という前の新聞はジョセフ・ヒコが横浜に入る郵便船のもたらす英字新聞を
ヒコ(Heco)が日本語に訳し岸田吟香と本間清雄がひらがな交じりの日本文に作り直し
1864年5月25日に創刊されたのが正確な新聞スタートの日である。
月に3回から4回横浜で配布されたそうである。
小惑星に有名な人物を命名している例について紹介しておきます。
詳細は小生のBlog(神戸の平清盛ゆかりの地をめぐる 神戸市垂水区 乙姫神社
on 2011-10-12)
平清盛の名前をつけた小惑星の話題について書いておきます。
この小惑星は火星と木星の間にある小惑星帯にあり小惑星番号4375で
1987年2月、新島恒男氏と浦田武氏が群馬県尾島町(現・太田市)で発見し
平清盛と命名しました。
このほか平家に関連する小惑星は以下のとおりです。
(4374) 忠盛:清盛の父
(4375)平清盛
(4376) 重盛:清盛の長男
(4377) 維盛:重盛の子供
(4945) 池禅尼:継母
(4959) 二位尼:妻
(5242) 建礼門院:娘
(4376) 重盛:長男
(4377) 維盛:孫
(4402) 経盛:弟
(4488) 時忠:義弟
小惑星番号4374から4377まで、平家の親子四代が連なっている。
浦田武氏は、上記の平氏一族の他にも(3585) 後白河や (3902) 頼朝、さらに(3178) 義経
など、多くの小惑星に平家物語に登場する平安時代末期(保元・平治の乱から源平合戦
にかけて)の人物の名を付けておられます。
ジョセフ・ヒコについて以前の記事から再掲載します。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco))(1837-1897)は日本で最初に民間新聞を発刊した
ことで知られています。
日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎
天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。
嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられて
アメリカサンフランシスコに行きます。
1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に
香港より再びアメリカへ渡航し
そして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。
しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており
外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、
ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)10月20日にアメリカに戻った。
慶応4年(1868)9月22日再び日本に帰還し、東京を中心に活動した。
元治元年(1864)7月31日、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を
横浜で発刊した。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。
岸田吟香については記念館がありそちらのHPが詳しい。
上記HPには岸田吟香(岡山県美咲町旧旭地区出身)の生涯のついて書かれています。
ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
神戸には明治8年(1875)から明治21年(1888)まで居住した。
ジョセフ・ヒコは日本での移住地は播磨町で13年、長崎で3年、神戸で12年、
東京で10年を過ごしています。残りの23年はアメリカで過ごしていることになります。
生田区中山手通六丁目にあるマンション前の植え込みの中にジョセフ・ヒコの旧居宅跡の碑が
建てられています(1935(昭和10)年神戸市が建立)。
ジョセフ・ヒコは神戸時代にこの辺りに12年間住んでいました。
明治30年(1897)12月12日、心臓病の為東京の自宅で死去61歳であった。
ジョセフ・ヒコの生涯についての解説はこちらのBlogに詳しく書かれています。
14歳のジョセフ・ヒコの銀塩写真が紹介されているBlogがありましたのでこちらにもリンクさせて
いただきました。
神戸の旧居の跡には碑も建てられています。
ジョセフ・ヒコ関連の小生のBlogを紹介します。
神戸市兵庫区能福寺のジョセフ・ヒコ英文碑
ジョセフ・ヒコの生家跡 in 兵庫県播磨町 on 2012-6-9
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町 散策記 その1 ジョセフ・ヒコの銅像
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その2 新聞の父ジョセフ・ヒコの記念碑
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その3 新聞の父濱田彦蔵の碑
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その4 蓮花寺の横文字の墓
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その5 播磨町郷土資料館
ジョセフ・ヒコの旧居跡
ジョセフ・ヒコは1875年より1888年?まで神戸市中央区に住んでおられたようです
新聞の先駆者ジョセフ・ヒコの旧居跡(その2)
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の解説 By Wikipedia(英文)
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
1864年6月28日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
上記書籍の購入に関する情報
関連Blog1 ハワイのJoseph heco Society