ハンサムウーマン 新島八重 By NHK歴史秘話ヒストリア |
が放送された。当日の主人公は宝生舞が演じるハンサムウーマン 新島八重である。
NHK番組の写真を交えながら紹介していきます。

番組の冒頭には新島八重の生まれ故郷である会津藩の若松城(鶴ケ城)が出てきます。
新島 八重は旧暦弘化2年(1845)11月3日(新暦では1845年12月1日)
会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の3女として誕生しました。
明治4年(1871年)新島八重27歳、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を
頼って上洛するまでの27年間を会津で過ごした。
新島八重24歳の明治元年(1868)戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て
奉仕し、会津若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した。
母佐久とともに川崎尚之助を助け大砲隊の指揮を執った。
明治元年9月22日(旧暦)会津藩は降伏し会津若松城は開城した。
若松城開城までに下記のような事象が慶応4年(明治元年)にありました。
慶応4年 1月3日 鳥羽伏見の戦い
3月14日 五箇条のご誓文
4月11日 江戸城開城
5月3日 会津藩、仙台藩などが奥羽列藩同盟を結成
5月15日 彰義隊が上野寛永寺付近で新政府軍と戦い敗れる
7月17日 江戸が東京と改称
8月19日 榎本武楊率いる旧幕府海軍の軍艦8隻が江戸を脱出北へ向かう
8月23日 新政府軍の会津藩攻撃が始まる
9月8日 慶応から明治に改元される

上の写真は日本のジャンヌダルクとして戦った新島八重を演じる綾瀬はるか。

上の写真は明治元年9月 新政府軍の砲撃を受けた会津若松城。

上の写真は戊辰戦争で父と弟を亡くし明治4年(1871)兄の山本覚馬を頼り
京都へ移住。

京都に移住してから英語を学び、明治5年(1872)日本で最初の女学校
「女紅場(にょこうば)」の舎監となる。
明治6年(1873)には山本覚馬と外国人向けの京都観光ガイド本を刊行している。
画面で宇治のガイドも放映されていたので添付(下の写真)しておきます。
明治時代初期の宇治村の様子(イラスト)が面白い。


上の写真は日本で最初の女学校、新英学校「女紅場(にょこうば)」の舎監となる。
女紅場の写真は貴重だと思います。
女紅場は(後の府立第一高女)現在は京都府立鴨沂高等学校となっています。
沢田研二(ジュリー)が卒業した学校です。
この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、
これがきっかけで新島八重も茶道に親しむようになる。

上記の女学校の経営が厳しいと聞くや八重はキャッスル(二条城のこと)に行って
きますと言って京都府参事であった槇村正直のもとに頻繁に陳情に出かけた。
京都の街の人達はこれを評して新島八重のことを烈婦と呼んだ。

明治8年(1875)10月15日に新島襄と婚約。当時、新島のキリスト教主義の
学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、
京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は
婚約直後、突如八重を女紅場から解雇した。
明治9年(1876)1月3日に新島八重は新島襄と再婚した。
京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。

上の写真は明治8年(1875)11月29日に設立された同志社英学校。

新島襄と新島八重の新居は同志社英学校の近くに新島襄自身の設計で建てられた。
昭和7年(1932年)6月14日、新島八重が亡くなるまでこの家に住んだ。
現在もこの新島旧邸は現存しており見学が出来ます。(要予約)
同志社大学 新島旧邸の個人予約申込のサイト

上の写真は新島旧邸の応接間。

上の写真は新島八重が使用していた戸棚(新島旧邸)。
新島襄は大の甘い物好きだったそうで、新島八重が学生のために焼いたお菓子を
この鍵付き扉がある戸棚に隠しておいたそうなのですが、新島襄は鍵を破り
みんな食べてしまうほどだったそうです。

新島襄の教え子の徳富蘇峰は新島襄と八重が一緒に出かけた演説会で
鵺(ぬえ)のような女性!と形容し、西洋と和風が入り混じった八重を批判。
しかし八重はこれには全く動じなかったという。肝っ玉がすわっていた。
徳富蘇峰は黒い眼と茶色の眼という著書のなかでも八重のことを鵺(ぬえ)と
批判しています。(上の写真)

上の写真は同志社英学校の第1回の卒業生です。徳富蘇峰は第1回の卒業生。

上の写真は新島八重がハンサムウーマンと称されるようになった英文で
She is not handsome at all 彼女は見た目は美しくない
でも生き方がハンサムなのである。

上の写真は明治15年(1882)新島八重は新島襄と一緒に故郷会津若松を
訪れています。この時点では天守閣がない会津若松城であった。

新島襄は明治21年(1888)心臓発作で倒れた。その後闘病生活が続き
明治23年(1890)1月23日に神奈川県大磯の旅館「百足屋」で逝去。享年46歳。
その時新島八重も46歳であった。
2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため
養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。


新たな生き方として選んだのは従軍看護婦。明治27年(1894)日清戦争が始まり
篤志看護婦人会の会員を率いて広島予備三院に駆けつけ救護活動をした。
女性の従軍は初めてのこと。軍内部では年齢がいって美しくないことが密かに
求められたほどだった。
その後明治28年(1895)には日本赤十字終身社員となり、さらに明治37年(1904)
の日露戦争では大阪で救護活動を行った。
これらの功績により明治39年(1906)12月25日には勲七等宝冠章を受章。
昭和3年(1928)には昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。

新島襄の死後、同志社の関係者とも疎遠になり新島八重は孤独であった。
孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、茶道であった。
円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、
以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。
新島旧邸の中にも茶室を設置した。

上の写真は茶道教室の仲間と一緒の新島八重。師範になっていた。

80代になった八重はまたしても物議をかもしだす。キリスト教から仏教に宗旨変え
したのではと騒がれた。
しかし「他の教えを聞いて悪いことはないでしょう」と反論したという。

新島八重は晩年も会津若松をたびたび訪問している。上の写真は県立葵高等学校に
残る新島八重の書の篇額である。
「美徳を以って飾りとせよ」と書かれています。84歳の時に書かれたものか・

新島八重は昭和7年(1932)6月14日に寺町丸太町上ルの現・新島旧邸で死去。
葬儀は「同志社社葬」として4000人もの参列者があった。墓所は襄の隣、
京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地。
(下の写真)


















