明石の偉人 橋本海関先生の墓と海関先生揮毫の石碑 |
の墓苑の一角にあります。(下の2枚の写真2013-2-6撮影)
上の写真は橋本海関の墓のアップです。「橋本海関先生之墓 丙子十一月建」と
刻まれています。橋本海関先生は嘉永5年(1852)生まれで昭和10年(1935)に
84歳で亡くなっています。丙子は昭和11年ですので昭和11年11月に橋本海関の
長男で日本画の巨匠、橋本関雪先生が建てたもので字も橋本関雪先生によるものです。
長寿院について基本情報を載せておきます。
住所:明石市人丸町2番26 号 TEL:078-911-5937
宗派:浄土宗西山禅林寺派(京都永観堂が大本山)山号:松巖山
公式HP
御本尊:阿弥陀如来
小生のBlogによる長寿院の紹介
本題に戻り橋本海関先生について紹介していきたいと思います。
橋本海関は嘉永5年(1852)明石藩の家臣橋本文水・マサ夫妻の子として生まれた。
本名は橋本子六。橋本徳有則という号も使用しています。
生家は明石市天文町の平忠度(ただのり)の塚のある場所の北側(明石村158番地)である。
平忠度塚については小生のBlogを参照してください。
橋本海関の父親の橋本文水は学問方の先生を勤め博学で山水画が上手かった。
橋本海関の祖父は剣術、柔術の武芸の指南役をつとめていました。
橋本海関先生の足跡を年代順に辿ってみたいと思います。
文久9年(1861)橋本海関9歳 母マサに実家山内家の明石藩士真陽に孟子を勉学
真陽が亡くなった後は梁田蛻巌 (やなだぜいがん)の景徳館に入り
梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事しました。
慶応2年(1866)橋本海関14歳 明石藩講武所詰となり武士道を学ぶ
慶応4年/明治元年(1868)橋本海関16歳 父橋本文水より詩を学ぶ
明治5年(1872)橋本海関20歳 敬義館の国語教師に就任
明治10年(1877)橋本海関26歳 兵庫県師範学校の教師となる
明治11年(1878)橋本海関27歳 神戸中学校の教師(併任)
明治xx年 橋本海関が池田フジ(不二子)と結婚 神戸市中央区楠町に居
フジは武家の娘であり書、絵、歌、琴等に秀でた才媛で美人であった
明治16年(1883)橋本海関32歳 長男の橋本関雪が生まれる
明治21年(1888)橋本海関37歳 妻フジが5歳の関雪と妹チエを残し家出
家出の理由は奇行の多い海関に愛想をつかしたという説と
フジに愛人ができたという説がある。
5歳の関雪を育てたのは祖母のマサになります。マサの実家の山内家も
儒家で漢文や絵を描くことに優れていた。子守唄の代わりに孔子の教え
の論語を聞きながら海関、関雪が育てられたとのこと。
明治xx年 清国大使館書記官の鄭孝胥(ていこうしょ)との出逢い
横浜で清国の政治家康有為(こうゆうい)の支援(翻訳など)
明治32年(1899)橋本海関48歳 加古川市尾上町の尼寺に寄寓
明治39年までの7年間
明治40年(1907)橋本海関56歳 明石の天文町に居を移す「赤石三勝」を著作
大正2年(1913) 橋本海関62歳 長男の橋本関雪と孫の節哉を同行して中国旅行
帰国後「一葦航吟」を著作
大正9年(1920) 橋本海関69歳 郷土の名勝を散策、昭和8年まで15年かけて
「明石名勝古事談」を著作
全11巻ある著作で明石の郷土史の基礎となっている
昭和10年(1935)橋本海関84歳 明石の地で没
上の写真は橋本海関先生です。
出典:『播磨学紀要 第10号』播磨学研究所 2004.10 Page12
橋本海関は知り合いから頼まれると気軽に墨書を書いた。
明石市内に残っている橋本海関揮毫の石碑の写真を紹介します。
上の写真は月照寺の「八房世姿の梅」と書かれた石碑。
上の写真は八ツ房の梅を撮ったものです。
元禄15年(1702)赤穂浪士の大石良雄と間瀬久太夫が月照寺を参拝その当時は
神仏習合なので柿本神社と一体になっていた。なにとぞ我らの大願をかなえてください
とお祈りにました。大石良雄は墨絵鍾馗の図を描いて奉納。
間瀬久太夫は持参の梅の鉢植え八ツ房を移植して祈願の印とした。
この梅は紅梅で一つの花から七、八個の実を結ぶので八ツ房の梅と呼ばれる。
現在の梅は3代目である。
上の写真は橋本海関書と伝わる「八房梅霊樹」の石碑と八ツ房の梅。
上の写真は同じく月照寺境内の石碑で橋本海関筆の「海上安全船乗十一面観世音菩薩」
と書かれています。
上の写真は中崎にある橋本海関筆の石碑「中崎遊園」と書かれています。
その他に橋本海関先生の筆となる石碑に、「菅公旅次遺跡」があります。
写真も含めて小生のBlogで紹介していますのでそちらをご参照ください。(下記)
菅公旅次遺跡碑 on 2012-10-26
山内真陽について知りたくてネット検索し、ここにたどり着きました。
私は松林飯山という人の漢詩集を現在まとめていまして、彼の詩に「山内真陽を哭す」と題された詩があり、その内容を見ると彼のことをとても称しており、どのような人物かとネット検索した次第でした。
ここしか有力な情報がありませんでしたので、とても助かりました。ありがとうございます。
ちなみに詩は二首ありまして
誰か輓きて 霊車 道山に向かふ
幽明 路を隔てて 涙潸々たり
錦江 果たせず 扁舟の約
月白く 風清く 也(また)等閑なり
一片 詩魂 呼べども回(かえ)らず
遺篇 空しく見る 瓊瑰を綴るを
料るに応に 白玉楼頭の客
暫く人間へと謫堕し来るなるべし
となっております。
コメントありがとうございます。私のほうこそ私が知らない貴重な情報を教えていただき感謝しております。今後ともよろしくお願いいたします。