司馬遼太郎の街道をゆくで紹介の布引の滝 |
を借りてきて読んでいる。
この中に、神戸散歩というシリーズで居留地、布引の滝、生田川、陳徳仁氏の館長室
西洋佳人の墓、青丘文庫という題目で神戸が紹介されています。
布引の滝の章があったこともあって、昨日(2013-2-15)終日神戸文書館で調べ物を
していたが、昼の休みを利用して布引の滝の写真を撮ってきました。
また、2012-6-4にも布引の滝を訪れ写真を撮っていますのでその分も含めて写真紹介
します。
「街道をゆく」は、作家・司馬遼太郎が昭和46年(1971)から25年間、週刊誌に
連載した思索紀行文学です。
挿絵は、1971年1月から1990年2月までが須田剋太、須田の没後は1990年9月から
1991年7月までは画家桑野博利(1913-2008年)、1991年8月から1996年3月までが
安野光雅が担当した(スケッチ集を3冊刊行、朝日新聞社)

上の写真は雌滝に行く途中に撮ったもので。布引の滝が上流より43mの雄滝(おんたき)、
夫婦滝(みょうとたき)、鼓ケ滝(つつみがたき)、14mの雌滝(めたき)の4つの滝
から構成されていることを示すために掲載しました。
街道をゆくの布引の滝の項では雄滝の近くにある茶屋の若草色ののれんに「おんたき」
という文字が染め抜かれているとあるが昨日(2013-2-15)は雌滝までしか行っておらず。
また2012-6-4の時には茶屋の写真を撮っていないので「街道をゆく」を訪ねてで暖簾の
写真を撮られているOcachinさんのサイトにリンクさせていただきます。
http://www.ocachin.com/kaidou/kinki/kobe.htm
2013-2-15撮影の写真からは雌滝と鎌倉初期の藤原定家の歌碑の2枚を紹介します。

上の写真は14m高の雌滝です。
手前には雌滝取水堰堤と右手にドーム屋根の建物が見られます。
説明書きによれば雌滝取水堰堤明治33年(1900)に建設され国指定の重要文化財
であること、アーチ状の堰堤に3個の制水弁があり、東側の栱台(きょうだい)との間
には24インチ(約60cm)のパイプが設置されていたこと。
くみ上げられた水が奥平野浄水場に送られていることが書かれています。

上の写真は藤原定家の歌碑です。
「布引の滝のしらいとなつくれば絶えずぞ人の山ぢたづぬる」と詠まれています。
京都の白川の四天王院の障子を飾った歌で最勝四天王院障子和歌と呼ばれて
いるそうです。
2012-6-4の写真から雄滝(43m高)を紹介します。下の2枚の写真。


司馬遼太郎さんは東大阪に住まわれていました。東大阪の住まいは現在、司馬遼太郎
記念館となっています。下記は小生のBlogでも紹介した司馬遼太郎記念館です。
司馬遼太郎記念館 on 2011-2-23
布引の滝は平安の時代から歌枕として有名で、ここを訪れる歌人も多い。
また観光地としても古くから栄えおおくの人を魅了してきました。
今でも自然の景観が残されておりハイキングコースにもなっています。
イノシシに出くわすこともありますのでくれぐれも注意してください。
新生田川にあらわれたいのししを神戸新聞がよく報道しています。
私も徳光院付近で見かけたことがあります。
徳光院が出てきたついでに六英堂について少し書いておきます。
六英堂とは岩倉具視私邸の一つであり元は東京の丸の内にあったものが、数回の移築、
移転を経て現在西宮神社境内に納まっています。
明治新政府の主要な人物、公家の三條実美、岩倉具視、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、
長門の木戸孝允、 伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということから、
この名が付けられたと言われています。
かってこの六英堂を川崎芳太郎氏が大正11年(1922)譲り受け徳光院に移築した
ことがあるのです。

















