新島襄・新島八重夫妻と神戸 |
について調べてみました。
新島襄について By Wikipedia
新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、天保14年1月14日
(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)はキリスト教の布教家。
明治8年(1875)11月29日同志社英学校(後の同志社大学)を興した。
福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている。
調査にあたって下記の書籍をベースとしています
永澤嘉已男 編著 「新島八重子回想録」 2012年9月1日 発行
同志社社史資料センター 同志社大学出版部 730円
上の写真は書籍「新島八重子回想録」の表紙です。
上記書籍のPage94に「アメリカから帰ってから、それは襄が死ぬ前の年の
明治二十一年(1888)でしたが、神戸の和楽園という僻地に参って居りました。」
というくだりがあります。
調べてみると新島襄・新島八重夫妻は明治21年(1888)12月14日から
明治22年(1889)3月30日まで和楽園(現在の諏訪山公園)近くに借家を借りて
住んでいました。この時神戸に滞在していた目的は新島襄の病気療養、同志社大学
設立のための神戸での寄付金集め、多聞教会、神戸教会、兵庫教会との交流。
明治21年(1888)2月25日に開校した神戸英学校(YMCA)の支援などが課題と
なっていて神戸に住むことが便利であったためと推定されます。
新島襄・新島八重夫妻と神戸に関わりある事象(赤字で記載)を年代順に列記します。
新島襄(1843-1890)、新島八重(1845-1932)
新島襄の独身時代も含めて記載。神戸と関係ない事象も記載。
天保14年(1843)1月14日 新島襄0歳 東京神田で生まれる
文久2年(1862)新島襄20歳 11月12日より20日間 品川を出航玉島に向けて航海
途中天候が悪く兵庫津により楠正成墓に参る
これが新島襄最初の神戸訪問であろうと思われる
上の写真は新島旧邸にあった「嗚呼忠臣楠子之墓」で20歳の安中藩藩士の若き
新島襄も楠正成の生きかたに共鳴していたのであろうと推定できます。
10年以上の外遊から身につけたリベラルな生きかたから想像つきませんが---
1862年当時は湊川神社はなく徳川光圀公が大楠公(楠木正成公)を景仰して建てた
墓のみがあった。
楠正成が参禅した寺(広厳寺(楠寺))福原西国観音霊場第21番の医王山広厳寺訪問記 on 2013-1-9
新島襄が参った時代の写真も上記小生のサイトに入れています。
元治元年(1864)~明治7年(1874) 新島襄22歳~32歳
函館から上海に向けてベルリン号で密航。上海より米国ボストンへ渡り
ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助を受け、
フィリップス・アカデミーに入学、洗礼、アーモスト大学卒業
アンドバー神学校卒業後、明治7年(1874)11月26日横浜に到着
岩倉使節団の滞米中に脱藩の罪が赦されて、正式な官費生
明治7年(1874)11月29日 新島襄32歳 10年7ヶ月ぶりに父母姉妹と再会
明治8年(1875)10月15日 新島襄(33歳)と新島八重(31歳)が婚約
11月29日 同志社英学校設立
開校時の教員は襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒はJ.D.デイヴィスが大坂より連れて
きた元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。
明治9年(1876) 1月3日 デビス司祭のもと新島襄(34歳)・新島八重(32歳)結婚
結婚式には同志社で長年教鞭にたったラーネッド夫妻も出席した。
キリスト教主義の学校を設立するため、米国セイヤーカレッジにいたラーネッド博士
(Dr. Dwight Whitney Learned)は明治8年11月1日サンフランシスコを出発、
11月23日横浜着、更に汽船で当時まだ人口4万ばかりの神戸に至り、旅券の下付に
数日を費し、12月はじめ京都に着く。これより実に半世紀にわたる同志社の教授
生活がはじまる。同志社に教師として雇入れにつき寄留の手続をしたが、その許可が
速やかに運ばず、許可の下りたのが翌年(明治9年)3月15日で、実際に教授を
始めたのが4月からである。
新島八重の回想録が同志社新聞に載ったのは昭和3年であるがその少し前に前述のラルネデ
さん(=ラーネッド博士)が創立当初の同志社英学校の様子をラルネデ回想録として
昭和2年9月から昭和3年5月まで10回12号に同志社新聞に掲載された。
明治11年(1878) 9月7日 新居(現在の新島旧邸)が完成し転居
上の3枚の写真は2013-1-30に撮影の新島旧邸
新島襄は外国へ行った時に石を持って帰るのが趣味だったようでたくさんの石が
展示されていました。
11月21日 神戸教会の献堂式に夫婦で出席
明治13年(1880) 10月11日 13日の岡山教会設立に出席のため神戸港より岡山へ
明治14年(1881)1月10日 病気療養で帰国するJ.D.デイビス一家の見送り神戸へ
9月17日 神戸へ山崎為徳(同志社英学校教員)看病のため9/19戻る
明治17年(1884)4月5日 東南アジア&欧米旅行のため夫婦で神戸へ
神戸ではD.W.C.ジェンクス宅に泊まる
4月6日 英国汽船 キヴァ号で神戸を出航 新島襄42歳、新島八重40歳
旅行中度々病に犯され遺書も書いていた
明治18年(1885)12月17日 新島襄が外遊から帰国 神戸へ八重が出迎える
明治19年(1886)8月9日 夫妻で海水浴に出かけ神戸垂水村にて滞在新島襄44歳、新島八重42歳
明治21年(1888)6月5日に神戸を出発し、新島襄が療養する鎌倉の海浜院に到着。
滞在中、毎朝夕、夫婦そろって散歩をした。
12月12日 夫妻で財部美の馬車で七条駅へ行き、大阪を経由し、
汽車で神戸へ向かう。神戸ではダッドレー、ハウ両女史の寮に泊まる
12月14日神戸英和女学校裏手の諏訪山和楽園の借家に移る。
明治22年(1889)1月18日神戸の有志が発起人となり神戸教会で同志社大学設立のための
支援集会が行われる
3月10日 八重のみ神戸より一時帰宅。
3月30日 夫妻で神戸より帰宅
4月8日 再び神戸へ 4月27日までダッドレー宅(J.E.Dudley)
8月3日、襄の休養のため、夫妻で播州垂水の松方万亀方に行く。
8月19日まで滞在。
8月19日、垂水から神戸へ移る。
8月20日神戸から有馬へ移る。
明治23年(1890)1月23日 午後2時20分 大磯新島襄永眠 48歳(正確には47歳11ヶ月か)
こうしてまとめてみると新島襄・新島八重夫妻が神戸に来た回数は洩れている部分も
含めると20回以上だろうと思われます。
新島襄・新島八重夫妻と神戸の関わりについて不十分ながらまとめてきました。今後
同志社社史資料センターが発行している新島研究第92号(2001年2月)で
行天 博志 氏が「新島襄と神戸」という標題でまとめられているのでそちらの文献と
神戸の新島襄所縁の教会を取材して中身のあるものにしたいと考えています。
神戸市においてもNHK大河ドラマ「平清盛」のときと同じとまではいかないが
観光資源として新島襄・新島八重夫妻の資料発掘に努力していただきたいというのが
私の願いである。
新島八重関連の小生のBlogへのリンク
ハンサムウーマン 新島八重 By NHK歴史秘話ヒストリア