2013年 04月 06日
新島襄・新島八重夫妻と神戸 その2 |
以前に「新島襄・新島八重夫妻と神戸」という題でBlog記事を書いた。
http://seiyo39.exblog.jp/20045629
今回、講談社MOOK 歴史の旅 新島八重のPage42にもうひとつの旅「神戸」
という題目で新島襄・新島八重夫妻と神戸の関係について記載されていたのに刺激され
「新島襄・新島八重夫妻と神戸」の続編を書くことになった。
下の2枚の写真が講談社MOOK 歴史の旅 新島八重の表紙とPage42の記事である。
上記の記事には神戸教会と諏訪神社及び3ヶ月余の療養生活を送った諏訪山の借家
などが取り上げられています。
まず、神戸教会と新島襄・新島八重夫妻との関係について書きます。
新島襄・新島八重夫妻は明治11年(1878)11月21日神戸教会の献堂式に夫婦で出席しています。講談社MOOKの記事では明治10年となっているが明治11年が正しい。
明治11年は新島襄が35歳、新島八重は33歳 明治9年1月3日の結婚式からまだ2年の
新婚ほやほやの時代です。
日本基督教団神戸教会の基本情報
住所:神戸市中央区花隈町9−16 TEL:078-341-2598
創立:明治7年(1874)4月19日 西日本最古のプロテスタント教会
設立当初は摂津第一公会と呼ばれていた
宗派:プロテスタント系 会衆派(旧組合派)の教会
牧師:菅野信彦氏公式HP:http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/
神戸教会の写真(2013-3-20撮影)を添付しておきます。
上の3枚の写真が日本基督教団神戸教会の写真です。
現在の公会堂は昭和7年(1932)に建設されました。
会衆派についてWikipediaより引用させていただきます。
「日本における会衆派教会の歩みは、同志社の創立者である新島襄による伝道活動に
始まる。彼は幕末に函館より鎖国していた日本を脱国(密出国)し、アメリカで
学んで1874年に帰国した時にはアメリカン・ボードの伝道者でもあった。
翌年(1875年)、新島は京都の地で同志社を設立するが、並行して伝道活動も行ない、
京都を中心に独立自治の会衆派教会を設立していった(当時は「教会」と呼ばず
「公会」と称した)。その後、神戸を基盤に活動していたアメリカン・ボードの
外国人伝道師や、その他の会衆派系の伝道師によって設立された各地の教会は、
ゆるやかな伝道協力組織として「日本基督教伝道会社」を設立(1878年)、
のちに教派の組織として31教会が「日本組合基督教会」(1886年)を設立した。
日本の会衆派はリベラルな神学的特長を持っている。」
上の写真は新島襄・新島八重夫妻とは関係ないが戦争遺構として貴重なので取り上げた。
現地の説明板に下記のように記されています。
「これは太平洋戦争下、1945年6月5日米軍による神戸空襲の際、爆弾によって破壊
された会堂前市道の溝蓋の敷石です。1980年神戸市営地下鉄工事に伴なう道路改修
のときに取り除かれる事になりましたが戦争の傷跡を覚え平和を願う意味で、
教会により保存されました」
新島八重は新島襄との結婚生活14年のうち3分の1は新島襄の看病の生活であった。
療養する夫に付添って、北海道、鎌倉、 伊香保、神戸にゆき、献身的に看病している。
明治21年(1888)4月22日井上馨邸で政界の有力者と同志社大学設立について懇談中
新島襄は脳貧血のため倒れた。
同年の7月2日難波医師から「心臓病は完治しない」と言われ新島八重はショックを受ける。
そのような状況下療養のため
明治21年(1888)12月14日神戸英和女学校裏手の諏訪山和楽園の借家に移る。
翌年の明治22年(1889)3月30日までの3ヶ月余を神戸諏訪山で療養生活を送った。
永澤嘉已男 編著 「新島八重子回想録」 2012年9月1日 発行
同志社社史資料センター 同志社大学出版部 730円 によると Page94
「アメリカから帰ってから、それは襄が死ぬ前の年の明治二十一年(1888)でしたが、
神戸の和楽園という僻地に参って居りました。他に何も慰めがなかったので、
縁のところで、空気銃で的を打って、数取りなどして遊んでいましたが、数取りでは、
何時も私が勝っていました」と回想されています。
また住友家の支配人の広瀬宰平氏の見舞いを受けたときのエピソードも書かれています。
上の2枚の写真は新島襄が療養生活を送った地に近い諏訪神社と諏訪神社の周辺です。
(2013-2-20撮影)
http://seiyo39.exblog.jp/20045629
今回、講談社MOOK 歴史の旅 新島八重のPage42にもうひとつの旅「神戸」
という題目で新島襄・新島八重夫妻と神戸の関係について記載されていたのに刺激され
「新島襄・新島八重夫妻と神戸」の続編を書くことになった。
下の2枚の写真が講談社MOOK 歴史の旅 新島八重の表紙とPage42の記事である。
上記の記事には神戸教会と諏訪神社及び3ヶ月余の療養生活を送った諏訪山の借家
などが取り上げられています。
まず、神戸教会と新島襄・新島八重夫妻との関係について書きます。
新島襄・新島八重夫妻は明治11年(1878)11月21日神戸教会の献堂式に夫婦で出席しています。講談社MOOKの記事では明治10年となっているが明治11年が正しい。
明治11年は新島襄が35歳、新島八重は33歳 明治9年1月3日の結婚式からまだ2年の
新婚ほやほやの時代です。
日本基督教団神戸教会の基本情報
住所:神戸市中央区花隈町9−16 TEL:078-341-2598
創立:明治7年(1874)4月19日 西日本最古のプロテスタント教会
設立当初は摂津第一公会と呼ばれていた
宗派:プロテスタント系 会衆派(旧組合派)の教会
牧師:菅野信彦氏公式HP:http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/
神戸教会の写真(2013-3-20撮影)を添付しておきます。
上の3枚の写真が日本基督教団神戸教会の写真です。
現在の公会堂は昭和7年(1932)に建設されました。
会衆派についてWikipediaより引用させていただきます。
「日本における会衆派教会の歩みは、同志社の創立者である新島襄による伝道活動に
始まる。彼は幕末に函館より鎖国していた日本を脱国(密出国)し、アメリカで
学んで1874年に帰国した時にはアメリカン・ボードの伝道者でもあった。
翌年(1875年)、新島は京都の地で同志社を設立するが、並行して伝道活動も行ない、
京都を中心に独立自治の会衆派教会を設立していった(当時は「教会」と呼ばず
「公会」と称した)。その後、神戸を基盤に活動していたアメリカン・ボードの
外国人伝道師や、その他の会衆派系の伝道師によって設立された各地の教会は、
ゆるやかな伝道協力組織として「日本基督教伝道会社」を設立(1878年)、
のちに教派の組織として31教会が「日本組合基督教会」(1886年)を設立した。
日本の会衆派はリベラルな神学的特長を持っている。」
上の写真は新島襄・新島八重夫妻とは関係ないが戦争遺構として貴重なので取り上げた。
現地の説明板に下記のように記されています。
「これは太平洋戦争下、1945年6月5日米軍による神戸空襲の際、爆弾によって破壊
された会堂前市道の溝蓋の敷石です。1980年神戸市営地下鉄工事に伴なう道路改修
のときに取り除かれる事になりましたが戦争の傷跡を覚え平和を願う意味で、
教会により保存されました」
新島八重は新島襄との結婚生活14年のうち3分の1は新島襄の看病の生活であった。
療養する夫に付添って、北海道、鎌倉、 伊香保、神戸にゆき、献身的に看病している。
明治21年(1888)4月22日井上馨邸で政界の有力者と同志社大学設立について懇談中
新島襄は脳貧血のため倒れた。
同年の7月2日難波医師から「心臓病は完治しない」と言われ新島八重はショックを受ける。
そのような状況下療養のため
明治21年(1888)12月14日神戸英和女学校裏手の諏訪山和楽園の借家に移る。
翌年の明治22年(1889)3月30日までの3ヶ月余を神戸諏訪山で療養生活を送った。
永澤嘉已男 編著 「新島八重子回想録」 2012年9月1日 発行
同志社社史資料センター 同志社大学出版部 730円 によると Page94
「アメリカから帰ってから、それは襄が死ぬ前の年の明治二十一年(1888)でしたが、
神戸の和楽園という僻地に参って居りました。他に何も慰めがなかったので、
縁のところで、空気銃で的を打って、数取りなどして遊んでいましたが、数取りでは、
何時も私が勝っていました」と回想されています。
また住友家の支配人の広瀬宰平氏の見舞いを受けたときのエピソードも書かれています。
上の2枚の写真は新島襄が療養生活を送った地に近い諏訪神社と諏訪神社の周辺です。
(2013-2-20撮影)
by seiyo39
| 2013-04-06 08:07
| 神戸情報
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