淡河城跡 訪問記 on 2013-4-14 |
写真を撮ってきましたので紹介します。
この記事を書くにあたって下記の文献を参照し部分引用させていただいた。
三木史談 第10号(昭和58年7月)Page7-24 下田 勉氏 著
淡河城跡の本丸跡付近の大体の位置を国土地理院2万5千分の1の地図で
示しておきます。
北緯34度48分44.9秒 東経135度5分46.9秒
Yahooの地図も添付しておきます。
上の写真は上述の文献(三木史談)のPage24巻末の付図で淡河城復元図です。
天守のあった場所には現在、白皇大明神を祀った神社となっています。
上の写真は淡河城跡市民公園の説明板(淡河城跡市民公園管理会作製)からの抜粋です。
三木史談の復元図と方角を合わせて北側を上にしました。
説明板には下記のように記載説明されています。
「淡河の里を眼下(比高差 約20m)に一望できる川岸段丘上端に築かれたこの城は、
淡河氏代々の居城でしたが天正6~8年(1578~1580)羽柴秀吉による三木城
(別所氏)攻めの後は有馬氏 一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで淡河と
共に栄えてきました。城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。
幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ本丸の南辺に東西50m、南東には竹慶寺跡があり
境内には城主 淡河氏代々の墓碑があります。」
淡河町自治協議会編の淡河町神戸市合併50周年記念誌 平成20年(2008)刊のPage91
に竹慶寺について下記のような説明がありましたので挙げておきます。
慶長2年(1597)文周長老の開基。淡河本町上山の旧領主有馬則氏居城本丸内に
ありました。有馬氏が久留米に国替えとなり無住となり正徳4年(1714)、長松寺に
併合して廃寺となりました。
上の写真は天守台の神社の南側の建屋の中にあった淡河城の復元図です。
(作者は淡河町南僧尾の下田勉氏で昭和50年2月に作画されたものです)
淡河町自治協議会の編著の神戸市合併50周年記念誌 つなぐPage 97にも
同じ復元図が掲載されています。
鳥瞰図ふうに書かれていますのでよく判ります。天正7年(1579)三木合戦当時の図で
織田信長が天正7年4月8日に越前衆不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近らに
命じて淡河城の周辺に付城を築かせていますがその付城も描かれています。
これらの付城は4月末に完成して越前衆と丹羽長秀は帰国している(信長公記)。
北方(写真では左側)の天正寺山(天正寺付城)に杉原七郎左衛門家次が布陣。
さらに歳田明神、松尾明神、新長寺、淡河宿なども描かれています。
淡河城の南原の奥側(上山付城)には浅野弾正長政が布陣、水平原合戦場、高泉寺も見える。
城の西南(谷ケ谷付城)には有馬四郎次郎則氏(有馬法印則頼の長男)が布陣。
淡河城の東(長松寺付城)には有馬法印則頼が布陣。則頼の居城の荻原城も見える。
淡河城内には淡河弾正忠定範が3百余名の兵とともに立てこもっていた。
車菱を敷き、逆茂木や大綱を張り巡らせて防備を固めていた。
また淡河弾正忠定範は牝馬(ひんば)を敵陣に放ちて遂に快勝したこともあった。
淡河城は別所長治が籠もる三木城の重要な兵糧の補給線でもあった。
秀吉は容易に淡河城が落ちないとみて持久戦となった。
しかし、天正7年5月26日織田の軍に淡河城を囲まれた淡河弾正忠定範は淡河城を開け
三木城に入る。(信長公記)
淡河弾正忠定範が三木城に入って(5/26)から9月10日に討ち死にするまでのことは
下記のBlogで綴っています。
淡河弾正忠定範戦死之碑 in 三木市八幡森史蹟公園 on 2013-4-8
上の写真は淡河城の本丸の北側に設置された擬似櫓の遠景。
上の写真は擬似櫓付近より淡河城の東有馬法印則頼が布陣していた長松寺付城付近で
長松寺に隣接している浄土宗のお寺、超日山光照寺の遠景です。
上の2枚の写真は天守台にある神社。相撲奉納の行事も残されているのか土俵も
ありました。
上の写真は淡河城跡の石碑。
上の写真は本丸跡の平地。16間四方で2箇所の井戸と水溜めが戦前までは存在していた
らしい。
上の写真は空堀。天守台の東側と南側には空堀が残っています。
上の2枚の写真は淡河家の代々の廊所です。昔は竹慶寺という寺があったようです。
どなたの墓碑か比定することはできませんでした。
上の写真は搦手門の方面の民家です。
上の写真は鶴峰山長松寺側から撮った淡河城跡の遠景である。
淡河弾正定範についてWikipediaとり解説を引用させていただきます。
淡河 定範(おうご さだのり、天文8年(1539年)? - 天正7年9月10日(1579年9月30日)?)は、戦国時代の武将。播磨国淡河城主。官途名は弾正忠。「淡河」の読みは、あわが、おごうなどの説もある。
別所長治の義理の伯父にあたる人物で、備前江見氏から淡河氏の養子に入った。天正7年(1579年)6月27日には敵軍中に牝馬を放つ奇襲作戦[1]で羽柴秀長を破った。その後の定範の消息は、天正7年9月10日(1579年9月30日)に、羽柴勢に破れ自刃したという戦死説(『別所長治記』、『陰徳太平記』などの記述から)と、その後も生き延びたという生存説(毛利輝元が家臣の井原元尚に宛てた書状の、「弾正殿御事、今御逗留に候」という記述から)などがあり、消息ははっきりしていない。
淡河氏の由来や三木合戦での淡河氏さらに淡河城について詳しく説明されている
サイトにリンクを貼らせていただきます。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ougo_ak.html